第38話:『開店』。
宿『木漏れ日』の朝は、時計の針が刻む正確なリズムと共に始まった。
「おはようございます。各員、配置についてください。本日の想定顧客数は、昨日の3倍。一切の妥協は認めません」
声が、清々しい空気の流れるロビーに響く。
私は既に今日の天候、客層、食材の在庫状況、そして従業員たちの状態を並列演算で処理し終えていた。
「……了解だ、シエル。……門番および周辺警備は任せてくれ。……宿の平穏を乱す不逞の輩は、私の剣が、一歩も敷居を跨がせない」
アルテミスが、新調された『木漏れ日』の紋章入りの軽装鎧を纏い、凛とした表情で頷いた。
かつての「騎士」としての義務感ではない。
彼女の瞳にあるのは、自分を救い、居場所を与えてくれた男への、揺るぎない忠誠と信頼だった。
「……フロントの受付は、私に任せなさい。 ……魔法の演算能力をフル活用して、チェックインから精算まで、1秒の遅滞も出さないわ!」
ルナが、支給された『宿屋仕様』の魔法杖を手に、気合を露わにする。
彼女の背後には、私が開発した「自動清算水晶」が鎮座しており、客が財布を取り出した瞬間に金額を算出する準備を整えていた。
「……ふんっ。……妾も負けてはおれぬのじゃ! ……給仕という任務、……魔王としての威厳を以て、完璧に完遂してやるのじゃ! シエル、後でたっぷりと、……褒美を期待しておるぞ!」
ミアが、裾の短い可愛らしいエプロンドレスを翻し、食堂へと駆けていく。
そして。
この宿の最大の「武器」であり、同時に最大の「不安定要素」でもある少女が、気怠げに髪を弄りながら口を開いた。
「……ねぇ。うるさ~い♡ 朝からそんなに張り切っちゃって。だっさ♡ シエル。あたしは外で、客寄せをすればいいんでしょ? あたしの顔が見られるんだから、客は金塊を積んででも、この宿に泊まりたいって泣きつくはずよ?♡」
エルゼ。
その圧倒的な美貌と、隠しきれない古龍のオーラ。
彼女が店の前に立つだけで、街中の視線を独占するのは火を見るより明らかだった。
「ええ、エルゼさん。あなたの役割は『広報兼、高付加価値サービス』の提供です。ただし、規約を忘れないでください。『お客様は神様』ではありません。『お客様は、規約を守る範囲内でのみ、利益をもたらすリソース』です。厄介な客には、あなたの得意な……『煽り』を行使して構いません」
「ふふっ、やっぱり、あんたって最高ね……っ♡ いいわよ、あたし好みの、ばぁか♡ な客が来たら、たっぷりとお勉強させてあげるわ。その代わり、売上が目標を超えたら、……今夜は朝まで、……離さないからね?♡」
エルゼが、私の耳元で熱い吐息を吹きかける。
表情一つ変えず、「……善処します」とだけ答え、宿の重厚な樫の扉を開け放った。
――オープン。
その瞬間、街の喧騒が宿の中に流れ込んできた。
噂は既に広まっていた。
あの傲慢な勇者カイルを、文字通り「廃人」にして消し去った謎の宿屋。
そこには、世界一美しい騎士と、絶世の魔術師、そして伝説の「古龍」を彷彿とさせる看板娘がいると。
「……いらっしゃいませ。……宿『木漏れ日』へ、ようこそ。……本日、……空き室は残りわずかです。……ご予約はお早めに」
事務的な、それでいてどこか心地よいモブ声が、次々と訪れる客を捌いていく。
一方で、外では。
「……ねぇ。……そこのあんた。……おそ~い♡ ……宿泊台帳に名前を書くのに、3秒もかけてるの? ……かわいそ~♡ 脳みそまで筋肉でできてるんじゃない? ……ざぁこ♡」
エルゼの「メスガキ接客」が、炸裂していた。
普通なら客が激怒し、即座に刃傷沙汰になってもおかしくない煽り。
だが、エルゼのその、至近距離で見つめられるだけで魂が震えるほどの美貌。
そして、蔑んでいるようでいて、どこか「もっと構ってほしい」と思わせるような絶妙な甘い声音が、訪れた男たちの性癖を次々と狂わせていった。
「……ぐっ、……なんだ、この辱めは……。……だが、……たまらん……! あの看板娘に『ざぁこ♡』と言われるためなら、1泊10万ゴールドでも惜しくないぞ!」
「……俺もだ! あの冷たい目! ……あんな美少女に罵倒されるなんて、神の祝福か!?」
計算通りだった。
「勇者を倒した宿」というバイアス。
そしてエルゼの「超越種ゆえの不敬」。
それが、この世界の歪んだ欲望を抱えた富裕層や冒険者たちの、強力な集客フック(釣り針)となっていたのだ。
「……エルゼさん、絶好調ですね。……客単価が、予想の40%増を維持しています」
帳簿をつけながら、外で煽り散らかしているエルゼに声をかける。
「あったりまえでしょ?♡ あたしを誰だと思ってるの? おめでた~い♡ ……でも、シエル。あたし、そろそろ……口が疲れてきたんだけど。……これ、あとで、口の中に、美味しいもの、入れてくれるわよね?♡」
エルゼが、ぺろりと赤い舌を出して私を挑発する。
その様子を、食堂からミアが皿を両手に持ったまま睨みつけていた。
「……ぬぬぬ……っ! あの赤毛、接客と称してシエルに色目を使っておるな! ……不敬、……不敬なのじゃ! 妾の方が、もっと上手く運べるし、もっと愛想よく(?)できるのじゃ!!」
「……ミア様、……皿の上のソースが零れそうです。……接客品質の低下は、私の評価に直結しますよ?」
「……うぎゃあぁ! し、シエル、すまぬ! すぐに運ぶのじゃ! 妾の最高にエレガントな給仕を見るのじゃぁ!!」
宿の中は、まさに戦場。
だが、私が支配するその戦場は、一分の無駄もなく回り続けていた。
アルテミスは、押し寄せた野次馬を「宿泊者以外は立ち入り禁止だ」と一喝して排除し。
ルナは、魔法の暗算で次々と会計を終わらせ。
ミアは、自称魔王の意地で料理を運び。
エルゼは、不敬を極めた煽りで客の財布の紐を緩めさせる。
宿『木漏れ日』。
それは、私が理想とする「拠り所」としての、完璧な第一歩を踏み出した。
だが、その熱狂の中に。
不気味なほどに静かな、一台の豪華な馬車が近づいていた。
馬車の窓から、嫌味なほどに整えられた髭を弄りながら、一人の男が宿を見下ろす。
「……ほう。ここが、あの勇者カイルを廃したという不遜な宿か。……ふん。見たところ、女の顔で客を釣るだけの、下俗な見世物小屋ではないか」
王都から派遣された、自称『世界最高の美食家』。
美食伯爵、ガストル。
彼は、私が最も嫌う「管理コストを無駄に増大させる不確定要素」
――すなわち、理不尽なクレーマーであった。




