第36話:勇者 vs『 』。
「……あ、あ……あぁ……っ!!」
視界が真っ赤に染まっている。いや、空の色が、大気が、この場に漂う魔力のすべてが、目の前の少女から放たれる圧倒的なプレッシャーによって「書き換えられて」いるんだ。
僕の【天賦の全能】が、狂ったように警鐘を鳴らしている。
感知不能。回避不能。防御不能。
脳内に流れるシステムメッセージが、これまでに見たこともない「エラー」で埋め尽くされていた。
「……ねぇ。……さっきから何を呆けてるの? 勇者様の分際で、私の前で腰を抜かすなんて。……超みじめじゃ~ん♡」
少女が、退屈そうに首を傾げた。
その小さな体から漏れ出す威圧感だけで、石畳がひび割れ、周囲にいた僕のメンバーたちが、言葉すら発せずに失神して倒れ伏していく。
(……は、……ははっ。……嘘だろ。バグだ。こんなの、絶対に設定ミスだ! 僕の【天賦の全能】は世界に愛される能力のはずだ。魔王だって僕の前では跪くはずなんだ!!)
「……【事象改変】!!」
僕は喉が千切れるほどの勢いで叫んだ。
僕が望む「結果」を世界に強制する、最強の権能。
――『目の前の不快な少女は、塵となって消滅する』。
その「結果」を、無理やり現実に上書きしようとした。
だが。
「……? いま、何かしたの? 扇風機か何かの真似? ……だっさ♡」
少女は、消滅するどころか、髪の毛一筋すら揺らさなかった。
僕の放った「世界の法則を書き換える命令」が、彼女に触れた瞬間に、まるで最初から存在しなかったかのように霧散して消えた。
「な、……な、ななな……なっ……!? なんで……!? 消えろよ! 死ねよ! 僕がそう望んだんだぞ! 世界は僕の思い通りになるはずなんだ!!」
「……ねぇ。……おめでた~い♡ あんた、さっきから『世界がどうこう』って言ってるけど。……その『世界』って、もしかして神や人間が勝手に作った、ちっぽけな魔術体系のこと?」
少女が、一歩、僕に向かって歩み寄った。
たった一歩。それだけで、僕の心臓が鷲掴みにされたような衝撃が走り、肺から空気が追い出される。
「……ざぁこ♡ あんたの『能力』って、結局はただの魔法の延長線上でしょ? 『火が出ろ』って命令するのと、何ら変わりない。……いい? 教えてあげるわ。……私竜族はね、神や人間が土を捏ねて作った『世界の法律』なんて、最初から一文字も読んでないのよ」
「……な、……何を……」
「……風が吹く。雨が降る。大地が揺れる。……そこに『魔法』なんて理由、必要かしら? 竜族の存在は、それ自体が『真理』なの。……あんたが『火は熱くない』って法律を100回唱えたところで、火に飛び込めば焼けるでしょ? ……あんたの能力なんて、その程度の『おままごと』なのよ。……お勉強、足りないよ?♡」
少女が、僕の腰に差してあった『聖剣』に、細い指先を伸ばした。
「神が決めたこと、人間が決めたことは、超越種には関係ない♡」
それは、神が勇者に与えた、あらゆる邪悪を断つ無敵の刃のはずだった。
「……神とやらの玩具。……人間はこんなものに頼ってるから、いつまで経ってもよわよわ♡ なのよ」
パキッ、という乾いた音が響いた。
少女が軽く指を弾いただけで、僕の誇りであり、僕の無双を支えてきた聖剣が、まるで劣化したプラスチックのように呆気なく砕け散った。
「あ……。あぁ……っ!! ああああああ!!」
僕の半身が、僕のアイデンティティが、ゴミのように散らばる。
「……ひっ、……あ、あぁ……っ!! イリス! セリス! 助けてくれ! 早くこの女を……っ!!」
僕は、背後に倒れているヤンデレヒロインたちに助けを求めた。
だが、聖女イリスも、魔術師セリスも。
彼女たちは、『少女の皮を被った何か』が放った「威圧」によって、完全に魂が折れていた。
僕の【経験値・スキル掠奪】で無理やり依存させていたはずの彼女たちの瞳から、僕への信仰心が、急速に、そして残酷に消え去っていくのが分かった。
「……カイル様……。……嘘、ですよね……。……あなたが、こんなに……みじめ……だなんて……」
イリスの冷めきった呟きが、トドメだった。
「……ねぇ。……もうおしまい?♡」
悪魔が、僕の顔を覗き込む。
彼女の紅色の瞳には、僕という存在への憎しみすら無かった。
ただ、羽虫を眺めるような、純粋で無垢な「蔑み」だけがあった。
「……さあ。……あんたが自慢してたその『理屈』。……私の拳で、粉々に叩き壊してあげるわよ。……準備、できた?♡」
少女の拳に、圧縮された「真の魔力」が宿る。
それは、世界が定義した魔法ではなく、彼女の命そのものを爆発させる、純粋な暴力。
僕はただ、失禁したまま、迫りくる「絶望」を眺めることしかできなかった。




