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第33話:店主は『メスガキ竜族』を仲間にした!▼

宿『木漏れ日』の朝は、かつての騒乱が嘘のように、奇妙な「調和」の中にあった。


窓から差し込む柔らかな光が、丁寧に磨き上げられた床に反射し、厨房からはシエルが仕込んだ厚切りベーコンが爆ぜる、食欲をそそる音が響いている。


その食卓の定位置で、赤い髪の少女――エルゼ・フォン・ドラグニルは、不機嫌そうにフォークを動かしていた。


昨日の「個別面談」を経て、彼女の態度は明らかに変化していた。


もちろん、その傲岸不遜な口調が消えたわけではない。


だが、その言葉には以前のような、相手を本気で叩き潰そうとする「毒」が欠けていた。


「……ねぇ、ミア。さっきからその、パンを頬張る顔。……ちんちくりん♡ が加速してて、もはや小動物にしか見えないんだけど。……かわいそ~♡」


エルゼが、横に座るミアに向かって、「煽り」を放つ。


だが、その直後だった。


エルゼの視線が、まるで磁石に引かれるように、カウンターでコーヒーを淹れている私――シエルの方へとチラリと動いた。


ほんの一瞬。


エルゼ本人は、誰にも気づかれていない完璧な隠蔽のつもりなのだろう。


だが、客観的なデータのみを収集する私の網膜は、彼女の瞳が私の反応を伺い、「今の煽り、聞こえた? またあのお仕置き(なでなで)、してくれる?」とでも言いたげな期待を孕んでいるのを、明確に捉えていた。


「……ふんっ。お主、またそうやって妾を煽って、シエルに構ってもらおうとしておるな? ……浅ましいのじゃ。竜族の矜持はどこへ行ったのじゃ?」


ミアは、口元にパン屑をつけたまま、余裕の表情でエルゼを一蹴した。


かつてなら激昂して宿を壊しかねなかった「自称魔王」は、今やエルゼの行動原理を完全に見抜いている。


「な、ななな……なによ! 誰がそんなこと……っ! ……ば~っか♡ あんたの頭、平和すぎて羨ましいわ。……おめでた~い♡ 私はただ、あんたのその、どんくさ♡ な食べ方が不快だって言ってるだけよ!」


エルゼは顔を真っ赤にして否定するが、その語尾はどこか弱々しい。


そして再び、私の顔をチラリと見る。


私が無言でコーヒーを差し出すと、彼女は「……ふんっ。……ありがたく、飲んであげるわよ。……にっがぁい♡」と、消え入りそうな声で付け加えた。


(……ふむ。エルゼ様の『試し行為』。心理学的なアタッチメント形成の過程において、非常に古典的な反応です。……彼女は、私の注意を引くための最短ルートとして『不適切な言動(煽り)』を選択し続けているようですね。……マネージャーとしては、このエネルギーを労働へと転換させる必要があります)


「エルゼ様。……朝食が終わったら、ルナさんの洗濯の手伝いをお願いします。……あなたのその、高次元な魔力による『乾燥』は、リネンの仕上がりを25%向上させます」


「……はぁ!? なんで私が、そんな泥人形の手伝いをしなきゃいけないのよ。って、言いたいけど。いいわよ、そこまで言うなら、やってあげなくもないわ。……あとで、……ちゃんと、……『報告』に来るから。……部屋で待ってなさいよね?♡」


エルゼは、もはや隠しきれない期待に尻尾を振らんばかりの勢いで、食器を片付け始めた。


その様子を、アルテミスが苦笑いしながら眺めている。


「……シエル、あの子、完全に手のひらの上だな。……昨日の今日で、これほど大人しくなるとは」


「大人しい……でしょうか。……以前よりも騒音の質が変わっただけだと思いますが。ルナさん、彼女の扱いに困ったら、私の名前を出してください。彼女にとって、私の言葉は今や、強力な『条件付け(パブロフの犬)』となっていますから」


「……う、うん。わかったわ。……でも、あの子、煽ってくる割には、私が重い物を持ってると『ひょろひょろ~♡ 見てられなぁ〜い』って言いながら、魔法で浮かせて運んでくれるのよね……」


ルナが、困ったような、けれど微笑ましいものを見る目でエルゼの背中を追う。


宿『木漏れ日』の面々は、既にエルゼの「メスガキ属性」を、一種の「可愛らしい癖」として受け入れ始めていた。


エルゼがルナと共に裏庭へと向かうと、食堂には私とミア、そしてアルテミスだけが残った。


私は、テーブルに一枚のリストを広げた。


「……さて。2週間後のオープンに向けて、備品調達の最終段階に入ります。特に、寝具。お客様が直接肌に触れるリネンと羽毛は、宿の『顧客満足度』を決定付ける最重要項目です」


「……羽毛か。……この近辺なら、隣街の市場にある『白鳥の翼亭ウイング・ホール』という商会が、質の良いものを取り扱っていると聞くが」


アルテミスが、騎士団時代に培った地域の情報網を提示する。


私は頷き、行程を組み立てた。


「……よし。アルテミス、ルナ、私。この三人で、街へ買い出しに向かいます。重量物の運搬と、魔力伝導率の鑑定。あなたたちの専門知識が必要です」


「……むっ!? シエル! 妾はどうするのじゃ! 妾も街へ行くぞ! 妾も羽毛を選びたいのじゃ!」


ミアが身を乗り出し、私の袖をぐいぐいと引く。


私は、彼女の黄金色の瞳を真っ直ぐに見つめ、その小さな肩に手を置いた。


「……ミア様。……あなたには、今回もこの宿における最も重要で、かつ困難な任務をお願いしたいのです」


「……じゅ、重要任務……とな?」


ミアの表情が、一瞬で引き締まった。


「……私たちが不在の間、この宿を守れるのは……あなたしかいません。『城の守護者』としての役割。そして何より、あのエルゼさんが、留守中に余計な暴走をしないよう、その強大な魔力で監視していただきたいのです。……この宿の規律は、あなたの双肩にかかっています」


「……ほう……っ!! さ、流石はシエル。妾の真の価値を分かっておるのじゃな! うむ、任せるがよい! あの赤毛が、妾の留守中に一歩でも不埒な真似をせぬよう、この魔王ミアが目を光らせておいてやるのじゃ!」


案の定、ミアは鼻を高くし、胸を張って快諾した。


「……シエルは本当に、人を動かすのが上手いな」


アルテミスが、半ば呆れたような、けれど尊敬の混じった視線を向けてくる。


「……いえ。適材適所を行っているだけです。……組織において、各個体の『承認欲求』を正しく燃料として活用するのは、マネージャーの基本ですから」


私は、失感情症気味の冷徹な計算に基づき、完璧なシフト表を完成させた。


数刻後。


ルナとエルゼが、洗濯物を干し終えて戻ってきた。


エルゼの顔は、魔力の酷使によるものか、あるいはルナに感謝されたことによるものか、微かに高揚して赤らんでいた。


「終わったわよ。シエル、報告に来てあげたんだけど。満足?♡」


彼女は、私の前に立ち、期待に満ちた瞳でこちらを見上げる。


「……お疲れ様です、エルゼさん。……非常に効率的な作業でした。……約束通り、後で10分間の『特別お手入れ』の時間を設けましょう。……ただし、私が街から戻ってきてからです」


「……は!? ……街!? ……ど、どこ行くのよ!? ……まさか、……私を置いていく気!? ……あきらめたら?♡ ……私なしで街なんて、……危なっかしくて見てられないわよ!」


エルゼが慌てて詰め寄るが、私は彼女の額を、指先で軽く小突いた。


「……エルゼさん。……あなたは、ミア様の監視下で待機です。……宿を離れる許可は出せません。……いい子で待っていられたら、……明日の朝食には、市場で仕入れた新鮮な果物のデザートを付けましょう」


「…………っ……、い、いい子……って……。……子供扱い、……しないでよね……っ……。……そんな子供騙しに、……乗るわけ……っ…………」


彼女は口を尖らせてそっぽを向いたが、その足取りはどこか軽やかだ。


こうして、宿『木漏れ日』の新たな日常は、エルゼという猛毒を加えながらも、シエルの完璧な管理によって「スローライフ」としての形を整えつつあった。


だが、この時。


街へと向かう街道の先に、かつてアルテミスを「切り捨てた」あの不快な因縁が待ち受けていることを、まだ誰も予見していなかった。



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