第30話:『The メスガキ』竜族。
宿『木漏れ日』の朝は、本来であれば、森のせせらぎと鳥のさえずり、そして焼きたてのパンの香りに包まれた「効率的で静謐な時間」であるはずだった。
だが、その平穏な調和は、昨夜の「緊急お手入れ」から劇的な回復を遂げた一人の少女によって、無残にも爆破された。
「……ねぇ、ちょっと。いつまで寝てるの? 朝の陽光が差し込んでから、もう3500秒は経過してるんだけど。……そんなに寝ないと動けないなんて、のろまなの?♡」
食堂に、鈴を転がすような、それでいて神経を逆撫でする高音の煽りが響き渡る。
声の主は、エルゼ・フォン・ドラグニル。
昨夜、クレーターの中心で泥に塗れていた彼女は、今や完璧な「再起動」を果たしていた。ルナが用意した予備の寝衣――白いレースの付いた可愛らしい服を、あたかも最高級のドレスであるかのように傲慢に着こなし、テーブルの特等席にふんぞり返っている。
「……う、うぅ……。シエル、あの子、朝からずっとあんな調子なのよ……」
厨房から顔を出したルナが、憔悴しきった表情で私に泣きついてきた。
一方、エルゼの正面に座るミアは、既に血管が浮き出るほどに拳を握り締め、怒りの炎で宿を燃やし尽くそうとしている。
「……シエル! 早くこの不敬な赤毛を追い出すのじゃ! 妾の朝の優雅な瞑想を、この小娘は『あたま、だいじょーぶ?♡』などという戯言で汚しおったのじゃぞ!」
「あら、聞こえてたんだ。耳、遠いのかと思った〜♡ おばあちゃんみたいに」
彼女の煽りはここで止まらない。
「……それにしても、さっきから目の前の雑魚幼女が自分のことを『魔王』とか言ってるけど、宿の連中はこいつの言うことを本気で信じてるの? 私の母様が相手にしてた『魔王』は、一睨みで海を枯らすほどの高位個体だったのよ?」
さらに彼女の追撃は止まない。
「……目の前のちんちくりん、魔力の拍動が弱すぎて、どう見たって、ただのホラ吹きにしか見えないんだけど。よっわ〜い♡から虚勢はってるんだね〜。かわいそうな嘘つき〜♡」
エルゼは、フォークを指先で弄びながら、ミアを「ゴミ端♡」を見るような目で見下ろした。
同年代の少女、あるいはミアの方が僅かに幼く見える程度だが、エルゼから放たれる「古龍の末裔」としての圧倒的な自尊心が、室内を支配している。
「お、おのれぇぇぇ……っ!! 妾を……この魔王ミアを、紛い物呼ばわりするかぁっ! 貴様のような、まだ脱皮も済んでおらん小娘に何がわかる! 妾と古龍の女王――貴様の母との戦績は、10678対9831で、妾が明確に勝ち越しておるわ!!」
「ぷぷっ♡ 必死すぎ〜♡ そんな作り話、誰が信じるのよ。私の母様は世界最強の種族の女王なのよ? ……今のあんたは、ただのできそこない♡。魔族の中でもゴブリン以下の存在じゃん! あ、でも、それだとゴブリンに可哀想か! せいぜいスライムレベルだったね〜? ……超みじめ〜♡」
「ぐぎぎ、ぎぎぎ……っ!! シエル! 調理場の包丁を持ってくるのじゃ! この生意気な鱗を剥いで、今すぐ串焼きにしてくれるわ!」
ミアが食堂の椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。
彼女の周囲で魔力が渦を巻き、食堂の窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げ始めた。 私は、手にしていたジャムの瓶を置き、眼鏡のブリッジを静かに押し上げた。
「ミア様、落ち着いてください。朝食の時間は、一日のエネルギーを効率的に摂取するためのフェーズです。……エルゼ様、あなたもです。宿の備品を破壊するような行為は、宿泊規約における重大な規約違反に該当します」
私の淡々とした、抑揚のない声。
失感情症に近い私の冷静さは、激昂するミアを僅かに萎えさせ、逆にエルゼの矛先を私へと向けさせた。
「……なによ、あんた。さっきから聞いてれば、泥人形みたいに無機質な声出しちゃって。……人間の分際で、私に指図するつもり? ……おめでた〜い♡」
エルゼが、その燃えるような赤髪を揺らしながら、私を凝視する。
彼女は、私の感情の起伏が極端に少ないことを、本能的な「違和感」として検知しているようだった。
「……あなたのその、感情が死んでる人形みたいな面。……見てるだけで、こっちの感覚が腐りそう。……むっのう♡ ざぁこ♡ あんたみたいな低位種に管理されるなんて、私の経歴に泥を塗るようなものなんだけど? ……理解ってないね〜♡」
矢継ぎ早に繰り出される煽りフレーズ。
「むっのう♡」「ざぁこ♡」という言葉が、まるで弾丸のように私の鼓膜を叩く。
だが、私にとってそれらは、処理すべき業務上の「雑音」以上の意味を持たなかった。
「……ご指摘ありがとうございます。私の表情筋の稼働率が低いことは、自覚しております。……ですが、私の『有能さ』を判断するのは、あなたの主観ではなく、この宿の経営実績、つまりは数字です。……さあ、スープが冷める前に、その『不機嫌という名の無駄なコスト』を切り捨てて、食事を済ませてください」
「…………っ、な……っ!?」
エルゼが絶句する。
彼女にとって、自分の煽りが「一切効かない」という事態は、生まれて初めての経験だったに違いない。
彼女は、自分の高貴な罵倒を「非効率な雑音」として処理された屈辱に、顔を真っ赤に染めた。
「……なによ、今の……。……私の言葉を、流したの……? ……この、古くさ〜い♡ 考え方の、……どんくさ♡ 人間のくせに……っ!」
彼女はムキになって次々と煽りを重ねるが、私は既に意識をルナの方へと向けていた。
ルナは、エルゼの放つ毒に当てられ、持っていたトレイをガタガタと震わせている。
「ルナ。……彼女の言葉は、単なる環境音だと思ってください。……あなたは天才魔術師として、自らの魔力回路の『清浄さ』を保つことに集中すべきです。……環境音に同調していては、あなたの質が落ちます」
「……う、うん。わかってるんだけど、シエルみたいに割り切れないわよぉ……」
ルナが泣きそうな顔で厨房へ引っ込む。
アルテミスもまた、剣の訓練を中断して戻ってきたが、食堂の「自称魔王 vs 古龍の娘」の地獄絵図を目の当たりにし、深いため息を吐いた。
「シエル……。あの子、やはり一度、規律というものを叩き込まねばならないのではないか? ……騎士団であれば、即座に営倉行きだぞ」
「アルテミス。……規律の強制は、一時的な抑制にはなりますが、根本的な『最適化』には繋がりません。……彼女には、もっと別の……逃れられないほどの『支配』と『屈服』が必要です。……その準備は、既に進めています」
私は、エルゼが「ねぇ! 聞いてるの!? ば〜っか♡ ざぁこ♡ むりむり♡ あんたなんか、一生私の足元で這いつくばってればいいのよ!」と喚き散らすのを、BGMのように聞き流しながら、昨夜の「メンテナンス」で得た彼女の生体データを脳内で反芻した。
(……龍族の魔力神経は、その自尊心の高さに比例して、外部からの刺激に極めて敏感。……特に、項から背骨にかけての『魔力の節』を適切に刺激すれば……。……ふむ。次のフェーズ『なでなで』への移行タイミングを、慎重に見定めるとしましょう)
宿『木漏れ日』の朝は、かつてないほどの騒音と不協和音に包まれていた。
だが、その混沌の中にあっても、私――シエルだけは、次なる「お手入れ(わからせ)」に向けた算段を、冷徹に、かつ確実に積み上げていた。




