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第29話:『幼児化』する超越種。

「…………っ、あ…………、あ、あぁぁ…………っ♡」


食堂に、エルゼの震えるような吐息が漏れた。


それはもはや「食事の感想」というレベルを超えていた。山猪の脂とベリーソースの完璧な「調和」は、彼女の脳内に直接、快楽物質の奔流を叩き込んでいた。


フォークを握る彼女の指先は小刻みに震え、黄金色の瞳は焦点が合わずに、とろんと蕩けきっている。


一噛みごとに、彼女の誇り高い「超越種としての自尊心」が、肉汁と共に飲み込まれていく。シエルの料理という名の「暴力的なまでの旨み」が、彼女の神経系を完全に掌握していた。


「……ふむ。……エルゼさん、お口に合いましたか? まだ『ルビーベリー』の酸味が強すぎたでしょうか」


私が事務的なトーンで問いかけると、エルゼはゆっくりと、夢遊病者のような動作で私を見上げた。


その顔は耳の付け根まで真っ赤に染まり、額には再び、先ほど引いたはずの「熱」が滲んでいる。だが、それは病的な熱ではなく、あまりの多幸感に脳が処理を放棄したことによる――「知恵熱の再発(オーバーフロー)」だった。


「…………し、シエル…………。……これ…………、……すぺっく……高すぎて…………、……もう……無理…………っ♡」


彼女の語彙力が、目に見えて崩壊していく。


「ざぁこ♡」と私を嘲笑っていた傲岸な少女の姿は、そこにはなかった。


彼女は、カタンとフォークを皿に落とすと、その場に崩れるようにしてテーブルに突っ伏した。


そして、熱に浮かされたような声で、知能指数が著しく低下した「幼児」のような言葉を漏らし始めた。


「……あたま……、ぽわぽわするぅ…………。……なんか、……とっても……いいにおい…………。……ねぇ……、……もっと……たべさせて……? ……あーん……して…………♡」


エルゼは、潤んだ瞳で私を上目遣いに見つめ、小さく開いた唇を突き出してみせた。  完璧な「幼児化」の発生である。


高スペックな超越種とやらの脳が、前世の高級レストランでもあり得ないほどの「情報密度の高い美味」に晒された結果、防衛本能として複雑な思考を放棄し、最も原始的な「甘え」のモードへと移行したのだ。


「……っ!? お、お、おのれぇぇっ!! この不潔な赤毛がぁっ!!」


その様子を隣で見ていたミアが、椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。


彼女の小さな手には、既に食堂のフォークが握られ、その先端には激しい嫉妬の魔力が収束している。


「シエルは妾の『専属管理官』なのじゃ! お主のような、空から降ってきただけの不法投棄物に『あーん』などさせるわけがなかろう! シエル、早くその赤毛を外に放り出すのじゃ! 妾が、妾が先に『あーん』を予約しておったのじゃぞ!!」


「ミア様、スケジュールにそのような項目はありませんでしたが……。はあ……困りましたね。リニューアルオープン前に、重要顧客が二人とも『機能不全』に陥るとは」


私は溜息を一つ吐き出し、眼鏡のブリッジを押し上げた。


足元では幼児化したエルゼが、私のシャツの裾をギュッと掴み、「だっこぉ、……シエル、だっこぉ……♡」と、甘ったるい声を出しながら擦り寄ってきている。


対するミアは、「妾もだっこするのじゃ! 妾の方が先なのじゃ!」と、私の反対側の足にしがみついてきた。


銀髪の魔族と、赤髪の竜族。


おそらく、この世界の頂点に君臨し得る二つの「災厄」が、私の膝下で、一人の人間の「愛顧」を奪い合って醜い争いを繰り広げている。


(……ふむ。想定外の事態ですが、これも一つの「信頼関係の構築」と捉えるべきでしょうか。……高スペック個体ほど、一度依存が完了すれば、これほど扱いやすくなるものなのですね)


私は、目の前でじゃれ合う……いえ、殺し合う二人の頭を、同時に、そして公平に撫で下ろした。


「……二人とも、静かにしてください。……宿のルール第一条を覚えていますか? 『私の指示には、絶対に従うこと』です」


私の冷徹で、けれど深い慈愛(管理欲)を含んだ声に、二人はビクンと身体を震わせ、同時に顔を上げた。


「……っ、う……、……うむ。……シエルがそう言うなら、……少しだけ待ってやっても良いが……」


「……はぁい……。ざぁこ幼女は……もうどうでもいい……シエル、いいこにするから…………、……ご褒美……ちょうだい……?」


エルゼは、幼児化していても「ざぁこ」というワードだけは忘れていないらしい。もはやそれは罵倒ではなく、彼女なりの「愛称」や「鳴き声」のようなものに昇華されていた。


「よろしい。……エルゼさん、あなたはまだ魔力の循環が安定していません。今日は一日、私の目の届く範囲で静養してもらいます。……ミア、あなたには彼女の『監視役』を任命します。魔王としての威厳を見せ、彼女が暴走しないよう見張ってください」


「……監視役、とな? ……ほう! それはつまり、妾の方が『格上』であると認めるということじゃな! 良かろう、この赤毛が変な気を起こさぬよう、妾がしっかりと見張ってやるのじゃ!」


ミアは再び、単純な……いえ、合理的な使命感に燃え、エルゼの隣に陣取った。


エルゼは「……うふふ……、……ちっちゃいのが……ぷんぷんしてる……。……かわいいねぇ……♡」と、もはや敵意すら消失した様子でミアの頬を突っついている。


それを見届け、私は再び包丁を握り直した。それから、買い出しの食材を加工しているアルテミスとルナに伝える。


「……さて。……まだ仕込みの半分も終わっていません。アルテミス、ルナ、買い出しの残りの野菜を処理しましょう。……2週間後のオープンには、さらに『凶悪な』一皿を用意しなければなりませんからね」


窓の外では、森の鳥たちが平穏な朝を告げていた。


だが、宿『木漏れ日』の内部は、もはや「平穏」という言葉では形容できないほど、濃密な魔力と、甘い依存の予感に満たされていた。


前世でリストラ候補の部下たちを「最強の戦力」へと叩き直してきた私の手腕は、どうやらこの異世界でも、期待以上の成果を出しつつあるようだ。


私は、足元で甘える二人のヒロイン――「魔族」と「竜族」を冷徹に、かつ深い満足感を持って観察しながら、次なる経営戦略を練り上げていく。


シエルの眼鏡が、鋭く光った。



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