第28話:竜族の娘は『山猪』を食す。
宿『木漏れ日』の朝は、厨房から立ち上る「芳醇な予感」と共に幕を開けた。
まだ夜気が残る薄暗い時間から、私は一人、昨日仕入れた「ワイルドボア(山猪)」の肉と対峙していた。
(……熟成状態、最高。死後硬直が解け、自己融解によるアミノ酸の生成がピークに達しています。……ここからは、料理人の腕の見せ所ですね)
私は、前世で培った「効率的な工程管理」を脳内で展開した。
まず取り組むべきは、肉のポテンシャルを最大限に引き出すための下処理だ。私は、研ぎ澄まされた包丁を手に取り、巨大な山猪の塊肉から、余分な筋や薄膜をミリ単位の精度で取り除いていく。
銀色に輝く脂身は、昨日の分析通り、魔力の根菜を食べて育った証である「真珠のような光沢」を放っていた。私はその脂の一部を切り出し、熱した銅鍋に投入した。
ジィィィィィ……。
静かな厨房に、脂が弾ける心地よい音が響く。
同時に、ナッツのような香ばしさと、野性味溢れる濃厚な香りが立ち上り、一瞬で室内の空気を支配した。私はそこに、昨日手に入れた「ドラゴン・ローズマリー」の枝を投入した。
熱せられた脂の中で、ハーブの精油が弾け、香りが肉の脂と「融解」していく。この「香りのベース」こそが、後の料理の奥行きを決定付けるのだ。
「……さて、次はソース作りです。竜族さんのような、高スペックゆえに繊細な味覚を持つ個体には、単なる塩味ではなく『複雑さ』が必要です」
私は小鍋に、深紅に輝く「ルビーベリー」をたっぷりと投入した。
火にかけると、ベリーの皮がパチンと弾け、中から宝石のような果汁が溢れ出す。そこに、アルテミスが秘蔵していた「古の薬草酒」を数滴垂らし、弱火でじっくりと煮詰めていく。
ルビーベリーの鋭い酸味、薬草酒の苦味、そして山猪の脂が持つ重厚なコク。
これらが鍋の中で、一つの「完成された調和」へと収束していく過程は、経営の改善計画が完璧に噛み合う瞬間の快感に似ている。
「……ふむ。酸味の角が取れ、魔力の残響が美しく響くようになりました。……あとは、主役の登場を待つだけです」
私が低温でじっくりと肉に火を通し、肉汁を閉じ込める「休ませ」の工程に入った頃。
二階の特別室から、微かな、けれど確かな「目覚めの気配」が伝わってきた。
――特別室のベッドの上。
竜族の少女は、自らの鼻孔をくすぐる「匂いという未体験の誘惑」によって、深い眠りの底から引きずり上げられていた。
「……っ……、なに……? この、……頭を……直接揺さぶるような、……暴力的な、匂い……」
彼女は、まだ重たい瞼を震わせながら、ゆっくりと身体を起こした。
冷却により、脳を焼き尽くしていた知恵熱は綺麗に去っている。代わりに残っていたのは、生命活動の根源的な渇き――「飢え」であった。
彼女は、自分がシエルによって清潔な寝衣に着替えさせられ、最高級のリネンに包まれていることに気づき、頬を朱に染めた。
「……あの、……ゴミスペックの人間……。……勝手に、……私の身体を……清掃して……。……不敬ね……、……死に値するわ……」
口では強気な「煽り(ざぁこ♡)」を繰り返しながらも、彼女の胃袋は、階下から漂ってくる「悪魔的な香り」に本能的な敗北を喫していた。
山猪の脂が焦げる官能的な匂い。煮詰められたベリーソースの、脳を痺れさせる甘酸っぱい香り。
彼女は、ふらつく足取りでベッドから降りると、吸い寄せられるように部屋の扉を開けた。そのまま1階に降りていく。
1階の食堂前には、昨日の「門番」――銀髪の魔王ミアが、既に食堂の椅子に鎮座し、涎を垂らしそうな顔で厨房を凝視していた。
「シエル! 早くするのじゃ! 妾の魔王としての理性が、この匂いに屈服しそうになっておる! 早く、その『貢ぎ物』を差し出すのじゃ!」
「ミア様、焦らないでください。……温度管理が完璧な状態で提供するのが、私の宿のポリシーです」
私は、最後のアロゼ(油を回しかける工程)を終え、完璧な厚みに切り分けた山猪のソテーを皿に盛り付けた。
断面は、鮮やかな薔薇色。
その上から、ルビーのように透き通った真紅のソースが、とろりと注がれる。
付け合わせは、滑らかな「マヂ・ポテト」のピューレと、バターでソテーした「サンライト・レタス」。
「……おはようございます、竜族さん」
「……っ、ぷふっ……! いまどき『竜族』なんて呼ぶ個体、初めて見たわ。そんなデリカシーのない呼称が許されたのは、前世紀までよ。……今の時代、私たちのことは『高次魔力生命体』、あるいはせめて『超越種』って呼ぶのが礼儀なの。……かわいそうに、……情弱な人間は、そんなことも知らないのね……♡」
私は彼女の嘲笑を受け流す。すると、彼女は少し考えるそぶりを見せる。
「……まあでも、超越種だと味気ないし、エルゼと呼ばせてあげるわ、情弱人間」
エルゼ。それが彼女の名前らしい。
「エルゼ様ですね。……ちょうど今、リニューアルオープンの試作第一号が完成したところです。……寝起きの胃袋には少し重いかもしれませんが、あなたの『魔力補給』には最適ですよ」
食堂の入り口で立ち尽くすエルゼに、私は事務的な、けれど確かな自信を込めた微笑みを向けた。
「……ふんっ。……なによ……。……人間ごときの料理が、……私の……高次元な味覚に、適うはずがないわ……。……無駄な努力よ」
彼女は、高慢な態度を崩さぬまま、ミアの正面の席へと腰を下ろした。
だが、目の前に置かれた「一皿」を見た瞬間、彼女の黄金色の瞳が、物理的な衝撃を受けたかのように大きく見開かれた。
「…………っ!? な、なに、この……美しすぎる……色彩」
皿の上にあるのは、単なる食べ物ではなかった。
それは、シエルというマネージャーが、異世界の食材を徹底的に分析し、再構築した「芸術作品」だった。
「……毒見は、妾が済ませておいてやっても良いぞ! そこの赤毛!」
ミアが我慢しきれずにフォークを伸ばそうとするのを、エルゼは無意識のうちに手で遮った。
彼女は、震える手でフォークを握り、薔薇色の断面を持つ山猪の肉を、一切れ口へと運んだ。
――その瞬間。
エルゼの脳内で、あらゆる「プライド」が、音を立てて崩壊した。
「…………っ、あ……っ……!? ♡」
歯を立てた瞬間、閉じ込められていた肉汁が、まるで高圧の魔力奔流のように口腔内で爆発した。
山猪の野性的で力強い旨味を、ルビーベリーの鋭い酸味が鮮やかに引き立て、ローズマリーの香りが鼻腔を爽やかに駆け抜けていく。
噛みしめるごとに、脂の甘みが舌の上で融け、喉を通るたびに魔力が細胞の隅々まで染み渡っていく。
「……う、……うま…………。……なに、これ……。……私の、……想定を、……遥かに……超えて……っ……♡」
エルゼの黄金色の瞳が、潤みを帯びてトロンと蕩け始めた。
「ざぁこ♡」と言い放っていたはずの唇は、今はただ、次の一切れを求めて小さく震えている。
「……ふむ。どうやら、調理は成功したようですね」
私は、彼女の陥落を確信しながら、手元に残った予備のソースを、これ見よがしにゆっくりとかき混ぜた。
竜族の娘、エルゼ。
自らを『超越種』と名乗るその高貴な自尊心が、シエルの提供する「至高のグルメ」によって、今まさに根底から塗り替えられようとしていた。




