第26話:市場での『買い出し』。
活気に満ちた街の市場は、一歩足を踏み入れただけで、鼻腔を突き抜ける情報の洪水に脳が痺れるようだった。
石畳の両脇には、色とりどりの天幕がひしめき合い、商人たちの怒号に近い呼び込みの声が空気を震わせている。だが、私の意識はそれらの雑音を瞬時に排し、店主としての鋭い「目利き」状態へと切り替わっていた。
「さあ、アルテミス、ルナ。ここからは一刻を争います。鮮度が落ちる前に、最高の食材を購入しますよ」
私がまず向かったのは、市場の北側に位置する「精肉区画」だ。
そこには、屠殺されてから数時間も経っていない魔物の肉が、生々しく、かつ美しく陳列されていた。中でも私の目を引いたのは、老舗の精肉店『剛腕の牙』の軒先に吊るされた、一頭の巨大な「ワイルドボア(山猪)」の半身だった。
「店主。このボア、森の深部、それも霊力の高い北の斜面で獲れた個体ですね。……しかも、仕留め方がいい。脳天を一撃で撃ち抜き、心臓が止まる前に血抜きを終えている。……見てください、この筋肉の断面を。鮮やかなルビー色で、ドリップ(肉汁)が一切漏れ出していない」
「……お、おい。あんた、何者だ? 一目でそこまで見抜く客は、この街のAランク冒険者でもそうはいねえぞ」
店主が驚愕に目を見開く。
前世での厳しい品質管理基準に照らし合わせても、これは「S級」の評価を下すべき代物だ。
「この脂の層の厚み……ふむ、どんぐりだけでなく、魔力を帯びた根菜を好んで食べていた個体でしょう。これを燻製にし、さらに私の特製ハーブで低温調理すれば、口の中で爆発的な旨味の相乗効果を生むはずです。……店主、これ、全て頂きましょう。言い値で構いません」
「……まいったね。これだけの目利きに買ってもらえるなら、こいつもうかばれる。……おい、若いの! 運搬の準備だ! この旦那に最高の状態で納品するぞ!」
続いて向かったのは、色鮮やかな果実が並ぶ「青果区画」だ。
宝石箱をひっくり返したような屋台の中で、私は「ルビーベリー」という、一粒が親指ほどの大きさがある深紅の果実に注目した。
「ルナ、これを見てください。……この果実の表面に走る、微細な網目模様。これは魔力の含有量が限界を超え、溢れ出している証拠です。……試食があるので食べてみましょう」
口に入れた瞬間に酸味と甘味が口腔に広がる。
「……っ、ふむ。期待通りです。圧倒的な酸味の後に、暴力的なまでの甘みが追いかけてくる。……これをソースに加工し、先ほどのボアの脂とぶつければ、お客様の味覚中枢は一瞬で陥落するでしょう」
「……わっ、本当だ! 噛んだ瞬間、魔力の火花が弾けたみたい! シエル、これ、パンに塗っても絶対美味しいわよ!」
ルナが興奮気味に頬を染める。私は彼女の感性を信頼し、さらに「サンライト・レタス」や、地下茎に魔力を蓄えた「マジ・ポテト」などを、次々とカゴに放り込んでいった。
アルテミスは私の横で、次第に重さを増していく荷車を、まるでおもちゃでも引くかのような軽やかさで操作していた。
「……シエルの食材選びを見ていると、まるで戦術を組み立てているかのようだ。ただの買い出しが、これほどまでに緊迫感のあるものだとは。……騎士団の配給係に見せてやりたいものだな」
「アルテミス。兵站の質が、組織の勝敗を分けるのは、軍隊も宿屋も同じですよ。さて、仕上げです。薬草店で、熟成された『ドラゴン・ローズマリー』を確保します」
全ての買い出しを終えた頃には、荷車は山のような食材で溢れ、太陽は西の空をオレンジ色に染め始めていた。
「……完璧な仕入れです。これで三日後のリニューアルオープンでは、街の貴族ですら腰を抜かすような『至高の晩餐』を提供できるでしょう」
私は心地よい疲労感と共に、宿『木漏れ日』への帰り道を歩いていた。
背後にはアルテミスとルナ。手には、明日からの仕込みに向けた勝利の予感。
……だが、その平穏な「帰還の儀」は、空から降り注ぐ「理不尽な影」によって無残に引き裂かれた。
――突如として、大気が震えた。
鳥たちが一斉に鳴き声を止め、周囲が不気味なほどの静寂に包まれる。
次の瞬間。
ゴォォォォォォォォッ!!
鼓膜を叩き潰さんばかりの轟音と共に、巨大な「影」が私たちの頭上を通過した。
それは、真っ赤な炎を纏ったかのような、巨大な飛竜。
だが、その飛翔はあまりにも危うい。翼を羽ばたく力は弱く、空中で何度もバランスを崩し、その身から不快な風圧を周囲に撒き散らしている。
「……っ!? アルテミス、ルナ! 伏せてください!」
私が叫ぶのと、その赤い影が地表へ激突するのは、ほぼ同時だった。
ドォォォォォォォォォォン!!
都市の中心にある市場から宿までの道中。
爆弾が落ちたかのような衝撃波が走り、巨大な土煙が天を突く。
舞い上がる砂塵、なぎ倒される木々。凄まじい熱波が私の頬を掠めていった。
「……っ……、アルテミス、無事ですか!?」
「ああ……何とか。……だが、何だ、今のは。……ドラゴンの墜落か?」
砂塵がゆっくりと晴れていく。
そこには、先ほどまで見えていたはずのドラゴンの巨体はなかった。
代わりにいたのは――。
クレーターのような窪みの中心で、地面に無様に尻もちをつき、荒い息を吐いている一人の美少女だった。
燃えるような、鮮烈な赤い髪。
金色の、それでいてどこか冷徹な光を宿した瞳。
衣服はボロボロに破れ、白く柔らかな太ももが、泥と土に塗れながらも露わになっている。
彼女は片手を地面につき、もう片方の手で自らの頭を押さえながら、嘔吐くように肩を上下させていた。
私は、アルテミスたちが剣を抜くのを制し、ゆっくりと彼女へと歩み寄った。
土煙を割り、彼女の目の前で足を止める。
物理的に、私は彼女を「完全に見下ろす」形になった。
彼女は、地を這うような惨めな格好のまま、ゆっくりと顔を上げた。
その口元からは、透明な涎が微かに垂れ、視線は定まっていない。
低地酔い。
そして脳内から漏れ出す、制御不能な魔力の残滓。
間違いなく、深刻な「魔力知恵熱」の状態だ。
だが、彼女はそんな限界の状態にあっても、私を見上げた瞬間、その唇を嘲るように歪めてみせた。
「……はぁ……はぁ……。……なによ……。……その、……頭の、弱そうな……面……」
彼女は、泥だらけの指で私を指差そうとして、力なく空を仰いだ。
そして、喉の奥から絞り出すような、それでいて鈴を転がすような高貴な声で、私という存在を「分析」し、吐き捨てた。
「……こんな、……低い……地上でしか……。……生きられないなんて……。……この、……歩く、……ゴミスペックの……猿……。……ほんとに……憐れね。……ざぁこ……。……ざぁこ……♡」
物理的には敗北し、地面に這いつくばり、私の介抱なしには指一本動かせないはずの少女。
だというのに、彼女の瞳は「お前のような下等種族に、私を見下ろす権利などない」と、明確なマウントを仕掛けてきていた。
その歪な誇りと、生理的な拒絶反応の入り混じった言葉。
(……ふむ。これは、非常に興味深い『重篤な不具合』ですね)
私は、彼女の暴言を「顧客からの要望(苦情)」として冷静に処理した。
彼女の頸動脈に走る異常な拍動、そして脳を焼き尽くさんばかりの魔力熱。
このまま放置すれば、彼女の肉体は自壊するだろう。
「……アルテミス、ルナ。荷車から冷却用の氷と、清潔なリネンを出してください。……非常にプライドが高く、かつ現在進行形で意識混濁を起こしている『重要顧客』の来訪です。……一刻を争うお手入れが必要ですね」
私は、地面に突っ伏したまま「……さわるな……低スペック……」と呻く赤い髪の少女を、有無を言わせぬ手つきで、ひょいと抱きかかえた。
腕の中に伝わってくる、驚くほどの熱量と、小さな身体の震え。
私は夕闇に包まれ始めた田舎道を、新たなお客様を腕に抱き、宿『木漏れ日』へと急いだ。
背後で、アルテミスとルナが「また大変なことになった……」という顔で追いかけてくるのを、私はどこか心地よい予感と共に感じていた。




