第25話:宿屋の『改装』。
宿『木漏れ日』を正式にオープンしてから、早いもので1ヶ月の月日が流れた。
都市の外れという、立地条件としては「最悪」に近いこの場所で、これほど短期間に「予約の取れない隠れ家」としての地位を築けたのは、ひとえに前世で培った私のマネジメントスキルの賜物だと言える。
(……本日の客室稼働率、100%。顧客満足度調査におけるリピート意向は95%を超えています。……ふむ、悪くない数字です。ですが、現場は疲弊し始めていますね)
私はカウンターの奥で、使い込まれた羊皮紙の帳簿にペンを走らせながら、宿の現状を冷徹に分析していた。
1ヶ月という時間は、新しい組織が馴染むには十分だが、同時に「慣れ」による油断や、設備の「摩耗」が顕在化する時期でもある。
アルテミスは朝晩の警備と力仕事を完璧にこなしているが、その首筋には連日の疲労が蓄積し、肩の筋肉が僅かに強張っている。ルナは接客と清掃、そして在庫管理において私を助けてくれているが、最近は帳簿の計算ミスが僅かに増えていた。これらはすべて、休息が不足しているという明らかな警告灯だ。
私はペンを置き、カウンターを指先で叩く。
前世のブラック企業で、過労死寸前の部下たちを「効率」という名の鞭で叩きつつ、同時に「リフレッシュ」という名の飴を適切に与えてきた私にとって、このタイミングでの決断は不可避だった。
「アルテミス、ルナ。少し手を止めて、こちらへ集まってください。……今後の運用に関する、重大な経営判断があります」
私の静かな、けれど有無を言わせぬ声が食堂に響く。
厨房で食器を拭いていたルナが驚いたように顔を上げ、中庭で剣の素振りをしていたアルテミスが、汗を拭いながら室内へと戻ってきた。
「どうした、シエル。また何か、宿の周辺に不審な魔物の影でも見つかったか?」
アルテミスが剣の柄に手をかけ、鋭い視線を周囲に走らせる。彼女の騎士としての忠誠心は素晴らしいが、今はその矛先を休めるべき時だ。
「いいえ。……本日、最後のお客様のチェックアウトをもちまして、宿『木漏れ日』は2週間の『戦略的臨時休業』に入ります。……これは、決定事項です」
「……はぁ!? 休業!? ちょっと、シエル。正気なの?」
ルナが目を丸くして、カウンターに詰め寄ってきた。
「今、すっごく評判が良くなってるのよ? 街の商人たちだって、『次はいつ泊まれるんだ』ってうるさいくらいなのに。2週間も休んだら、売上が……」
「ルナ。売上の数字よりも、提供するサービスの質が低下することこそが、この宿にとって最大の損失です。……今のあなたたちの動きを見ていれば分かります。集中力が散漫になり、動作が緩慢になっています。……このままでは、お客様に最高の一日を提供することはできません」
私はルナの瞳を真っ直ぐに見つめ、淡々と、けれど情理を尽くして説いた。
「この2週間は、単なる休みではありません。厨房の火力を底上げするための魔石の交換、客室の建材への防腐処理。そして何より、私が開発を進めている『新メニュー』の完成に向けた、クリエイティブな投資期間です。……わかりますか? 私たちは今、さらなる高みへ登るための足場を固める必要があるのです」
「……新メニュー、か。シエルがそう言うなら、それはきっと必要なことなのだろうな」
アルテミスが深く息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。
彼女は私の「判断」が、常に最終的には最善の結果を導き出すことを、この1ヶ月で身をもって知っているのだ。
「早速、本日は新メニュー開発のための食材調達に向かいます。人手が必要ですので、協力していただきますよ?」
さて、ここまでは序の口だ。本題は、その背後で不満げに頬を膨らませている「小さな独裁者」の方にある。
「シエル! 妾の耳は誤魔化せぬぞ! 街へ買い出しに行くという話、しかと聞き及んだのじゃ! 当然、妾も同行する! 魔王である妾が、お主のような非力な人間を不逞の輩から守ってやらねばならんからな!」
ミアが、私の腰のあたりを小さな拳でポカポカと叩きながら主張する。
この1ヶ月、彼女は私の「魔王軍幹部からの魔王様への教育」という名の厳しい実務研修を耐え抜き、今では客室のリネン交換や、庭の剪定において驚くべき手際を見せている。
彼女にとって、この宿はもはや「自らの領土」であり、私は「最も重要な臣下」なのだ。
だが、今回の買い出しは大量の物資を運ぶ重労働であり、かつ街の人混みに彼女を連れて行くのは、正体露見のリスク管理上、避けるべき事案だ。
……何より、買い出しに行くと毎回、あのお菓子がほしいだの、あのおもちゃがほしいだの、せがまれる。
(こうなったら、アレを使うしかありませんね)
私はミアの前に静かに跪き、彼女の黄金色の瞳と視線の高さを合わせた。
これは前世、プライドばかりが高く、実務を嫌がる「二世社員」を動かす際によく使った、高度な心理的マネジメント手法だ。
「……ミア様。そのお言葉、心より感謝いたします。……ですが、実は私は、今回最も困難で、かつ責任の重い任務を誰に託すべきか、昨夜から一睡もできずに悩んでいたのです」
「……なっ、そなたすら困惑させるほどの重責だと!? 申してみよ、シエル。それは何なのじゃ!」
ミアの耳がピクリと動き、好奇心と優越感がその小さな全身から溢れ出した。
私は声を潜め、周囲を警戒するようなフリをしながら、彼女の耳元で囁いた。
「……今回、私たちは街へ向かいますが、その間、この『木漏れ日』――私たちの城は、完全な無防備の状態になります。もし、私がいない隙を狙って、邪悪な魔物や、あるいは卑劣な泥棒がこの場所に立ち入れば……私たちが1ヶ月かけて築き上げたこの城の威厳は、地に落ちてしまうでしょう」
「……ふむ。それは確かに、看過できぬ問題じゃな」
「ええ。ですが、この広大な宿を、たった一人で守護しきれるような『強大な力』と『威厳』を兼ね備えた存在など、この世界にそう何人もいるはずがありません。……私は思いました。……ああ、魔王であるミア様が、ここに鎮座してくださってさえいれば、全ての災厄は退散し、蟻一匹通さぬ鉄壁の要塞となるのに……と」
「…………ほう。妾しか、おらぬか。妾が……いれば、万全か。うむ。うむうむ!」
ミアは腕を組み、鼻をこれでもかと高くして、何度も深く頷いた。
彼女の単純な……いえ、純粋な自尊心は、私の言葉という名のガソリンで、今や激しく燃え上がっている。
「良かろう! シエル、お主の不安は理解した! 確かに、お主らのような雑兵では、この城を空にするのは心許なかろうからな! 安心するが良い、この魔王ミアが、この城を鉄壁の守護で守ってやる! お主は安心して、妾の口に合う最高級の貢ぎ物を選んでくるが良いぞ!」
「……ありがとうございます。ミア様がいてくださると思うだけで、私の心はこれ以上ないほど安らかです」
私は深々と頭を下げた。
(……完璧ですね。これで街でのリスクを回避しつつ、宿の防犯体制も(精神的な意味で)整いました。彼女の魔王という『設定』を維持することが、時にこれほどまでに管理コストを削減してくれるとは、嬉しい誤算です)
私はアルテミスとルナを連れて、準備しておいた大型の荷車を引いて、街へと向かう準備を整えた。
宿を出発する際、ミアは建物の二階の窓から、大仰な身振りで私たちを見送っていた。
「早く戻らねば、妾の魔力でこの宿ごと敵を吹き飛ばしてしまうかもしれんからな! 気を付けるのじゃぞ!」などと叫んでいるが、その顔は「重要な任務」を任された喜びで緩みきっている。
私たちは、1ヶ月の間に何度も通り慣れた道を、軽快な足取りで進んでいった。
アルテミスは剣を帯びつつも、どこか足取りが軽い。ルナは市場で買うべき食材のリストを、何度もブツブツと復唱している。
「シエル。街へ着いたら、まずはどこへ行く?」
「まずは『市場』の最深部です。……新作メニューの核となる、特別な食材。それを私の目で、直接鑑定しなければなりませんから」
私は、前世で培った「品質管理」と「コスト計算」の基準を脳内にロードし、異世界の市場という名の戦場へ向けて、思考を鋭く研ぎ澄ませていった。
これから始まるのは、宿『木漏れ日』を次なる次元へと押し上げるための、最も重要で、かつ「美味しい」闘いになるはずだった。
(……この2週間で、彼女たちの疲れを完全に癒やし、かつ最高の料理を完成させる。……それが宿屋の店主である私の、今期最大の任務です)
朝日が草原を黄金色に染め、私たちの影を長く伸ばす。
この先に待ち受ける出会いが、宿の日常を根底から変えることになるなど、この時の私はまだ、露ほども思っていなかった。




