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第20話:自称魔王の『お手伝い』。


身支度を整え、ミアを連れて一階の食堂へと降りると、そこには既に朝の瑞々しい光が満ちていた。


使い込まれた木のテーブルが朝日に照らされて柔らかい光を反射し、キッチンからはルナが仕込んだスープの香ばしい匂いが漂ってくる。


「ふん……。なかなか、悪くない眺めじゃな。妾の魔王城に比べれば、あまりに矮小で、小汚い場所ではあるが……」


ミアはそう言いながら、まだ少しふらつく足取りで食堂の椅子に座った。


口では毒を吐いているが、その鼻は美味しそうな匂いに正直にピクピクと動いている。


その様子がおかしくて、私は内心で微笑みながら、彼女の前に焼きたてのパンとハチミツの小皿を置いた。


「光栄ですよ、魔王様。ですが、まずはその『矮小な宿』の朝食で体力を蓄えてください。病み上がりに無理は禁物ですからね」


「……言われずとも分かっておる。お主がどうしてもと請うのなら、食してやらんこともない」


ミアはあくまで尊大に言い放つと、小さな手でパンをちぎり、たっぷりとハチミツに浸して口に運んだ。


瞬間、彼女の瞳がキラキラと輝き、頬が幸せそうに緩む。


「……っ! う、うむ。……合格じゃな。なかなかの美味ではないか。シエル、お主、妾の専属料理人になる権利を認めてやるぞ」


「それはどうも。ですが、まずは自力でパンをこぼさずに食べられるようになってからにしてくださいね。……ほら、口の横にハチミツがついていますよ」


私が指先で彼女の口元を拭ってあげると、ミアは顔を真っ赤にして「なっ、子供扱いするな!」と抗議したが、その手は止まらずに次のパンを口に運んでいた。


そんな私たちのやり取りを、カウンターで剣の手入れをしていたアルテミスと、食器を片付けていたルナが、それぞれ少し呆れたような、けれど温かい眼差しで見ていた。


「シエル、この後の予定はどうなっている? 今日は裏庭の整備も必要だろうか」


アルテミスが、研石を置いて私に問いかける。彼女の騎士らしい真面目な仕事ぶりには、いつも助けられている。


「ええ、アルテミス。裏庭も気になりますが、まずは食堂の床掃除を済ませてしまいたいですね。お客様を迎える準備が最優先です。ルナ、あなたは仕込みの続きをお願いできますか?」


「了解。シエル、今日のメインは昨日話したパイでいいのよね?」


「ええ。お願いします」


ルナがエプロンを締め直しながら、キッチンへと引っ込んでいく。


そんな中、パンを完食して満足げに息を吐いたミアが、唐突に椅子から飛び降りた。


「シエル! 妾も手伝うのじゃ!」


彼女は私の前に立ち、腰に手を当てて胸を張った。


「……手伝う、ですか? ミア、あなたはまだ病み上がりですよ。今日一日は大人しく休んでいても誰も文句は言いません」


「黙れ! 魔王ミア=レギルス・ド・ディザスターは、借りをそのままにするような卑怯者ではない! 昨夜の……あの、不甲斐ない姿を見られた対価として、この宿を魔王の力で清めてやるのじゃ!」


彼女の本名はミア=レギルス・ド・ディザスターというらしい。


凝った設定ですね。


……可愛い。特に『ディザスター(天災)』の部分が。ふふっ。


ミアの瞳には、並々ならぬ決意が宿っていた。


前世での経験上、こういう時の「やる気」を無碍に削ぐのはマネジメントとして下策だ。彼女は今、救われた側の自分ではなく、何かに貢献できる自分を証明したがっている。


(……懐かしいですね。入社直後の新人たちも、失敗を取り返そうと必死になって、余計な仕事に首を突っ込みたがったものです。あの時、私は『邪魔だから座って見ててください』と切り捨ててしまいましたが……)


私は、彼女のやる気を汲み取ることにした。


「分かりました。そこまでおっしゃるなら、食堂の床拭きをお願いしてもよろしいでしょうか? 魔王様の高貴な力で、この宿をピカピカにしてみてください」


「うむ! 任せておくのじゃ!」


そうして始まった、魔王による宿屋の大掃除。


だが、現実はそう甘くはなかった。


ミアは威勢よく雑巾を手に取ったものの、そもそも彼女の体格では、大きなバケツに水を汲むことすら一苦労だったのだ。


「ぬぐぅ……。このバケツ、もしや魔力が込められておるのか? 重すぎるのじゃ……!」


「ミア、それはただの水の重さですよ。……アルテミス、少し手伝ってあげてください」


「承知した。……ミア、私が半分持ってやろう。協力して運ぶのもまた、戦場では必要なことだ」


アルテミスが片手で軽々とバケツを持ち上げると、ミアは「ふん、補助なら認めてやるわ」と強がって、もう片方の取っ手を必死に握りしめた。


ようやく始まった床掃除も、見ていてヒヤヒヤする代物だった。


ミアは雑巾を四つん這いになって動かすのではなく、立ったまま足で滑らせようとしたり、あるいは「魔王の奥義!」と叫びながら勢いよく雑巾を投げつけたりと、やりたい放題だ。


「ミア! そこ、今磨いたばかりなのに……もう、水浸しじゃない!」


キッチンから様子を見に来たルナが、悲鳴に近い声を上げる。


「うるさいわ、ルナ! これは魔界に伝わる洗浄の儀式なのじゃ! 水分をたっぷり含ませることで、魔力の伝導率を高めておるのじゃ!」


「ただの掃除に魔力なんて必要ないわよ! ほら、そこ滑るから……あ!」


「なっ、わぁぁぁぁっ!?」


ルナの警告も虚しく、ミアは自分が撒いた水で足を滑らせ、派手に転倒した。


ドタン、という大きな音と共に、ミアの小さな体が床に投げ出される。


「ミア!」


私は即座に駆け寄り、彼女を抱き上げた。


幸い、床が水浸しだったおかげで打撲はひどくなさそうだが、彼女の服はびしょ濡れで、その顔には今にも泣き出しそうな屈辱の色が浮かんでいた。


「……ぅ、……ぅぅ…………」


「怪我はありませんか? 痛むところは?」


「……シ、シエル……。……妾は…………」


ミアの唇が震える。


彼女は、自分が「魔王」としての威厳を見せるどころか、またしても私たちの手を煩わせたことに、耐えられないほどの恥ずかしさを感じているようだった。


アルテミスも心配そうに近寄り、ルナも「……別に、怒ってるわけじゃないから」と気まずそうに視線を逸らしている。


私は、震えるミアの背中を、ゆっくりと、リズムよく叩いて落ち着かせた。


(……失敗は、挑戦した証拠です。かつての私は、その失敗のコストだけを見て、挑戦の価値を見ようとしませんでした)


「大丈夫ですよ、ミア。あなたがこの宿を綺麗にしようとしてくれたその気持ちは、既に魔力となってこの床に刻まれています。……見てください、そこだけ他よりもずっと白くなっているでしょう?」


私が指差したのは、彼女が転ぶ直前に、必死に雑巾を押し付けていた一角だ。


そこだけが、不格好に、けれど確かに力強く磨き上げられていた。


「……本当か? 本当に……妾の力は、役に立っておるのか?」


「ええ、もちろんです。……ただし、一人で抱え込みすぎてはいけません。魔王様ほどの御方なら、配下に指示を出すのも立派な務めでしょう?」


私は、彼女の目線を合わせるように膝をついた。


「この掃除は、私とアルテミス、そしてルナとあなたの共同プロジェクトです。……ミア、あなたは床の四隅を、私たちは中央を磨きましょう。役割分担(マネジメント)が、成功の鍵ですよ」


ミアは、涙を溜めた瞳で私をじっと見つめていたが、やがて鼻をすすり、グイと袖で顔を拭った。


「……ふん。……仕方ないのじゃ。シエルがそこまで言うなら、お主らを妾の『臨時配下』に任命してやるわ。感謝するのじゃぞ!」


「はい、承知いたしました。魔王様」


私は恭しく頭を下げ、それからアルテミスとルナに目配せをした。


「……ふっ、魔王の配下か。悪くない響きだな。――従おう」


「もう、しょうがないわね……。……ほら、ミア、そこは私が手伝ってあげるから」


四人で協力して進める床掃除は、驚くほどスムーズに進んだ。


ミアは自分の担当区域を、今度は転ばないように慎重に、けれど誰よりも熱心に磨き続けた。


その小さな背中からは、先ほどまでの絶望感は消え、代わりに「この宿の一員である」という静かな自負が滲み出ているように見えた。


一通りの掃除が終わる頃には、食堂の床は朝の光を鏡のように反射するほどに輝いていた。


「終わりましたね。……お疲れ様です、皆さん」


私が告げると、ミアは肩で息をしながらも、満足げに腰に手を当てた。


「ふはははっ! 見たか! これが魔王ミアの真の力なのじゃ! この宿も、これで少しはマシな場所になったであろう!」


「ええ、見事な采配でしたよ。……ご褒美に、冷たいジュースを用意しました。これを飲んで、休憩しましょう」


私が差し出したコップを、ミアは一気に飲み干した。


その喉を鳴らす音、満足げな溜息。


そのすべてが、この宿『木漏れ日』の新しい日常の音となっていく。


私は、ピカピカになった床を見つめながら、改めて確信していた。


この子を拾ったのは、間違いではなかったと。


そして、彼女を守るためには、この宿をさらに強固な場所にしていかなければならないと。


(……前世では得られなかった、この充実感。……数字では表せない、心の満足度。……私は今、ようやく本当の『経営』というものを知ったのかもしれませんね)


私は、隣で誇らしげに鼻を鳴らす小さな魔王の頭を、彼女に気づかれないように、けれど深い愛情を込めて、優しく見つめ続けた。




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