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第19話:自称魔王の『ドレスアップ』。


窓の外から差し込む朝日は、昨日までの嵐が嘘のように穏やかで、澄んでいた。


宿『木漏れ日』の二階、私の私室に満ちた空気は、まだ夜の静寂の名残を孕んでいる。だが、腕の中に感じる確かな「重み」と「熱」が、今日という新しい一日の始まりを私に告げていた。


「……ん、んぅ…………。……人間、苦しいのじゃ…………」


聞き慣れた、けれど昨夜の消え入りそうな掠れ声とは比べものにならないほど、張りのある声。


視線を落とすと、案の定、ミアが私の胸元に顔を埋めたまま、もがくように手足をバタつかせていた。白銀の髪が私のパジャマに擦れ、サラサラと心地よい音を立てる。


昨夜、死に瀕していたあの悍ましい熱はすっかり引き、彼女の肌には、陶器のような滑らかさと、健康的な白さが戻っていた。


「おはようございます、ミア。元気になったようで安心しました。ですが、あまり暴れるとシーツが乱れてしまいますよ」


私は、彼女の小さな肩を優しく、けれど逃げられないようにしっかりと抑え、その上半身を起こさせた。


シーツが擦れる音と共に、ミアが顔を上げる。まだ眠たげに潤んだ大きな瞳が、不満そうに私を射抜いた。


「な、……なにするのじゃ! シエル、妾を子供扱いするなと……っ、昨日も言うたではないか!」


「いいえ。病み上がりの方を適切にケアし、社会復帰(起床)を促すのは、宿主としての当然の義務ですから。少し待っていてください」


私は部屋を出て一階へ向かう。


一階ではすでにアルテミスとルナが朝の支度をしてくれていた。


私は厨房で蒸しタオルを準備し、二階へと戻る。


「さあ、顔を拭きましょうね。じっとしていてください」


私が用意した温かい蒸しタオルを差し出すと、ミアは「ぬぐぅ……」と喉を鳴らした。


彼女は何か言い返そうと口を動かしたが、私の迷いのない、かつ洗練された無駄のない動きに気圧されたのか、結局は諦めたように目を閉じ、小さな顔を私に預けてきた。


タオル越しに伝わる、彼女の柔らかな輪郭。


泥だらけで雨に打たれていた彼女を抱き上げた時の、あの心臓が止まるような冷たさが嘘のようだ。


じわり、と温かさが彼女の肌に浸透していく。その様子を眺めているだけで、私の胸の奥に溜まっていた澱のような不安が、朝露のように消えていくのが分かった。


その時、静かに部屋の扉がノックされた。


「――シエル。ミアの様子はどうだろうか」


入ってきたのは、アルテミスだった。


彼女は既に身なりを整え、その腰には騎士としての矜持を感じさせる真っ直ぐな背筋が通っている。朝日に照らされた彼女の横顔は、昨夜の疲労を感じさせないほどに凛々しい。だが、その瞳の奥には、仲間を案じる真剣な色がはっきりと見て取れた。


「ええ、アルテミス。見ての通り、朝から元気に抗議する余裕があるようです。あなたが根気強く、看病し続けてくれたおかげですよ」


私の言葉に、アルテミスは安堵したように、ふっ、と肩の力を抜いた。


「そうか、よかった。……これだけ熱が引けば、もう安心だな。ミア、あまりシエルを困らせてやるなよ? 彼女は一晩中、貴殿の傍にいたのだからな」


「ふん。アルテミス、お主に言われる筋合いはないわ。妾は魔王なのじゃぞ。人間の世話になるなど、本来なら歴史に刻まれるレベルの屈辱なのじゃ」


タオルで顔を拭かれながら、自称魔王は不服そうに唇を尖らせた。


その様子を微笑ましく見守っていると、背後からさらに賑やかな足音が近づいてきた。


「ちょっと。 起きて早々うるさいわよ、このチビ魔族! シエルがどれだけ心配してたと思ってるの?」


ルナが、銀のトレイを両手でしっかりと抱えながら部屋に入ってきた。


トレイの上には、湯気を立てるスープと、焼きたてのパンが並んでいる。彼女はそれをテーブルにガシャリと置くと、少しぶっきらぼうな手付きでミアの顔を覗き込んだ。


「……元気そうね」


ルナはプイッと顔を背けたが、その耳たぶが微かに赤くなっているのを私は見逃さなかった。


彼女もまた、昨夜は自分の魔力不足を呪いながら、必死にミアの体温を魔法で制御していたのだ。


「ルナ、あなたもありがとうございます。あなたの繊細な魔力制御がなければ、回復までにもっと時間がかかっていたはずです。素晴らしい手際でしたよ」


「……シ、シエル。別にいいって言ってるじゃない。……もう、変なところで褒めないでよ」


ルナは顔を赤くして俯き、エプロンの端をいじり始めた。


私は、そんな彼女たちのやり取りを眺めながら、心の中に静かな充足感を覚えていた。


今の私には分かる。


彼女たちが発する言葉の裏にある、不器用なほどの優しさが。


そして、魔王だと嘯きながら私のパジャマの裾を掴んで離さない、この小さな少女が抱える「甘え」の欲求が。


(マネージャーの仕事とは、単にプロジェクトを完遂させることではない。……そこにいるメンバーの心がどこにあるかを見極め、適切な居場所を与えること。……今の私なら、それができるかもしれません)


「さて、ミア。朝食の準備ができています。ルナがあなたの好みに合わせて、ハチミツをたっぷり用意してくれましたよ。……ですが、その前に、寝癖を直して着替えを済ませてしまいましょうね。魔王様がボサボサの髪では、示しがつかないでしょう?」


「シエル! 妾は自分でできると言うておる……あ、こら、そこを梳かすな! ひゃ、ひゃっ!」


私はミアの可愛らしい抗議を、最高の心地よさを持って受け流しながら、彼女の白銀の髪にブラシを通した。


一本一本、絡まりを解くように。


彼女の心に絡みついた孤独の棘も、こうしてゆっくりと解いていければいい。


アルテミスは窓を開け、清涼な空気を部屋に呼び込んでいる。


ルナは「冷めないうちに食べなさいよね」と、文句を言いながらもスープの温度を確かめている。


宿『木漏れ日』の、新しい家族を迎えての本格的な一日が、今、静かに幕を開けた。


私はブラシを置き、鏡の中に映る自分とミアを見つめ、静かに微笑んだ。


「さあ、ミア。まずは身嗜み(ドレスアップ)から始めましょうか」



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