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第18話:俺の『推し』は清水先輩。


深夜2時。


静まり返ったオフィスに響くのは、誰かのキーボードを叩く音と、唸りを上げるサーバーの排気音だけだ。


デスクの上の缶コーヒーはとうに冷めきり、目の前のモニターに表示された数字は、疲労で霞んで意味をなさなくなっている。


「……っ、くそ……」


何度計算し直しても、整合性が取れない。この資料が明日までに完成しなければ、今の無茶なプロジェクトは完全に頓挫する。それは、俺のミスだ。俺が、もっと有能であれば。


その時、背後から影が落ちた。


振り返るまでもない。このビルに漂う、重苦しい停滞感を切り裂くような、凛とした空気。


「佐藤さん。その作業は中断してください」


鈴を転がすような、けれど一切の感情を排した氷のような声。


清水先輩だ。


彼女は、俺よりも2つ年上のマネージャー。


中学生と見紛うばかりに小柄な体躯。背伸びをしても俺の肩にも届かないようなその人が、なぜかこの地獄のような会社では、誰よりも巨大な存在に見えた。


「清水、先輩……。でも、これ、明日までに……」


「現在のあなたの作業効率は、平時の3割以下にまで低下しています。これ以上の継続はリソースの浪費であり、何よりミスの温床です。……資料は私が引き取ります。あなたは今すぐ帰りなさい」


「そんな! 先輩だって、昨日から一睡もしてないじゃないですか!」


俺は、必死で食い下がった。


彼女の目の下には微かに隈があり、その白い指先は、膨大なタスクに曝されて少し震えているように見えた。


それでも、彼女の眼差しは揺るがない。


「タクシー代は経費で落とさせます。……私の指示が聞けませんか? それとも、私の判断を疑っているのですか」


「……っ、いえ……」


「ならば早く行きなさい。明日、朝9時に万全の体調で出社すること。それが今のあなたの仕事です」


淡々と、冷徹に。


彼女は俺の手から、重い責任の詰まったUSBメモリをもぎ取った。


俺は、逃げるようにオフィスを後にした。


深夜のオフィス街。冷たい風が頬を打つ。


人気の消えた街灯の下を歩きながら、俺は不意に、視界が滲んでいくのを感じた。


「……っ、う、うぅ……」


泣きたかったわけじゃない。


怒られたから泣いているのでもない。清水先輩は、一度だって俺を罵倒したりはしなかった。


ただ、悔しかったのだ。


また、あの人に泥を被せてしまった。


あの小さくて、今にも折れそうな背中に、俺の分の重荷まで背負わせてしまった。


清水先輩は、部下から嫌われていると思い込んでいる節があった。


「私は愛想を振りまくタイプではありませんから」と自嘲気味に言い、効率と正論だけで俺たちを縛り上げた。


けれど、俺たちは知っている。


層部からの理不尽な要求に対して、あの小さな体で、虎のような形相をして論理の刃を振り回し、部下を守り抜いてくれるのは彼女だけだということを。


ミスをした部下を冷たく突き放しながらも、裏でそのミスの後始末を完璧に終わらせ、上には「私の責任です」と報告していることを。


駅へと続く道すがら、俺は鼻をすすりながら夜空を見上げた。


(先輩……。俺は、いつになったら、隣に立てるようになるんだろう……)


翌朝。


少しでも力になりたくて、始発に近い電車に飛び乗り、7時半にオフィスへと駆け込んだ。


だが、そこには既に「彼女」がいた。


昨日と同じ、シワ一つないブラウス。


乱れのない、美しく整えられた髪。


彼女は、私のデスクの上に一束の資料を置いた。


「おはようございます、佐藤さん。昨日の資料、修正と補完を済ませておきました。9時からの会議の準備を始めてください」


「いつ……いつ寝たんですか?」


「30分ほど仮眠を摂りました。……私のことはいいのです。あなたは、この資料の中身を完璧に把握しなさい。その方が、私にとっては助かります」


彼女は、コーヒーを一口啜り、何事もなかったかのように自分のモニターに向き直った。


その背中が、あまりに痛々しくて、あまりに美しかった。


自分は嫌われている。冷徹だ。


そう信じ込んで、孤独に戦い続ける清水先輩。


俺は、自分のキーボードを強く叩いた。


いつか、この人が少しでも笑えるように。


この人が背負っている重荷を、少しでも分かち合える男になるために。


その日の朝、オフィスの空気は、清水先輩という名の凛とした光によって、静かに、けれど熱く燃え上がっていた。



 ◆



午前中の嵐のような会議が終わり、正午を回った。


清水先輩は、役員会議に呼び出されて中座している。あの上層部の老害たちが、また彼女に無理難題を押し付けていないか、俺は気が気ではなかった。


「……はぁ。死ぬかと思った」


ふらりと給湯室へ向かうと、そこには同期の鈴木がいた。彼女もまた、別の案件で清水先輩の直下についている、戦友のような存在だ。


「佐藤、お疲れ様。さっきの会議、清水先輩がいなかったら、あんた今頃部長の怒鳴り声で消し炭になってたわよ」


鈴木は、スティックコーヒーをかき混ぜながら、少し疲れた顔で笑った。


「分かってるよ……。先輩が完璧な想定問答集を渡してくれたおかげだ。……なぁ、鈴木。お前、ランチ行かないか? ちょっと話したいことがあるんだ」


俺たちは、オフィスの近くにある、あまり客の入らない薄暗い喫茶店に入った。


注文したナポリタンが運ばれてくるのを待つ間、俺は昨夜の出来事と、帰り道で泣いたことを思い切って打ち明けた。


「……情けないよな。2年目にもなって、いまだにあの人の背中を眺めて泣いてるんだから」


自嘲気味に言うと、鈴木はフォークの手を止めて、真顔で俺を見つめた。


「……あんたもなの? 私なんて、先週のプレゼン後にトイレで30分泣いたわよ。清水先輩に『この数値は論理的ではありません』ってバッサリ斬られた時」


「やっぱり、きつかったか?」


「違うわよ、バカ。逆。……斬られた後、私が席に戻ったら、デスクにそっと付箋が貼ってあったの。『論理構成は甘いですが、視点は鋭かったですよ。次に期待します』って。……あんなの、ズルいでしょ。あんなの、惚れるなっていう方が無理じゃない」


鈴木は視線を逸らして、パスタを勢いよく巻いた。


「……ねえ、佐藤。正直に言いなさいよ。あんた、清水先輩のこと、どう思ってるの?」


私は、一口水を飲んでから、覚悟を決めて口を開いた。


「……推してる。っていうか、もう信仰に近いかもしれない。……あの人がこの会社にいる限り、俺は絶対に辞めない。あの人が一人で泥沼を泳いでいるのに、自分だけ逃げ出すなんて、男として……いや、一人の人間として、一生自分を許せなくなる気がするんだ」


俺の告白に、鈴木は「ふふっ」と短く笑った。


「……なんだ。あんたも『清水教』の信者だったわけね。安心したわ。実は私もなの。……非公式だけど、制作部の女子の間じゃ、先輩は『氷の女神』って呼ばれてるのよ」


「氷の女神……。いかにも先輩らしいな」


「あの人、自分では『部下に嫌われている』って本気で思ってるみたいだけど、本当におめでたいわよね。鏡を見てほしいわ。あの小柄な体で、誰よりも重い責任を背負って、ボロボロになっても姿勢を崩さない。中学生みたいな体型なのに、中身は最強の女。……あんなの、推さない理由がないじゃない」


鈴木の言葉は、俺の胸の奥に澱んでいた想いを次々と代弁していった。


この会社は、はっきり言ってブラックだ。


サービス残業は当たり前、上司は手柄を奪い、失敗を押し付ける。


本来なら、俺だって鈴木だって、とっくの昔に心を病んで辞めていただろう。


それでも踏みとどまっているのは、清水先輩がいたからだ。


「……先輩、自分が辞めたら、私たちがもっと楽になると思ってる節があるでしょ? 『私のマネジメントが厳しすぎるから、皆の顔色が悪い』とか、真面目な顔で分析してたわよ、この間」


「……はは、相変わらず的外れな自己評価だな。……俺たちが顔色悪いのは、あんたが過労で倒れるんじゃないかって心配してるからなのに」


「そう。だからこそ、辞められないのよね。……もし今、私が辞めたら、私の分の仕事まであの小さな背中に乗っかっちゃうでしょ? そんなの、想像しただけで吐き気がするわ」


鈴木は、いつになく真剣な表情で俺を見つめた。


「佐藤。約束しましょう。……いつか、先輩に『少し休んでください』って胸を張って言えるくらい、私たちが仕事できるようになるまで、絶対にあきらめないこと。あの人が、この会社という地獄をいつか卒業するその日まで、私たちが最高の部下になろう」


「……ああ。誓うよ」


俺たちは、冷めたナポリタンを噛み締めながら、秘密の同盟を結んだ。


世間から見れば、俺たちは搾取されているだけの歯車かもしれない。


だが、俺たちにとっては、清水先輩を守ることこそが、この不条理な戦場で戦い続けるための、唯一の、そして最大のモチベーションだった。


ランチを終えてオフィスに戻る道すがら、午後のタスクを頭の中で整理した。


昨日の修正は完璧だ。次は、先輩の机の上に溜まっている承認待ちの書類を、少しでも整理しやすく分類しておこう。


(先輩……。あなたは孤独じゃない。……あなたが嫌われていると思っているこの場所で、あなたのことを誰よりも必要としている奴らが、こんなにいるんだから)


エレベーターの鏡に映る自分の顔は、今朝よりもずっと、前向きな色を帯びていた。



 ◆



ランチを終え、俺と鈴木が戦場であるオフィスへ戻ると、自席の近くに見覚えのある高い背中があった。


制作部のエースであり、清水先輩の右腕とも称される3年目の先輩、高橋さんだ。


彼は眉間にシワを寄せ、先輩の空席のデスクを見つめながら、難しそうな顔でタブレットを叩いていた。


「高橋さん、お疲れ様です。先輩、まだ戻ってきませんか?」


俺が声をかけると、高橋さんは「ああ、佐藤と鈴木か」と視線だけをこちらに向けた。この人は仕事ができるだけでなく、その冷徹なまでの仕事ぶりが清水先輩に似ていると社内でも噂されている。


「役員連中の詰問が長引いているらしい。……ったく、あの老害ども。実務も知らない癖に、清水先輩のリソースを無駄に削りやがって」


吐き捨てるような言葉。だが、その声には苛立ちよりも、深い焦燥と、清水先輩への過剰なまでの同質化が滲んでいた。


「高橋さんも……心配なんですね、先輩のこと」


鈴木がそう付け加えると、高橋さんは少し意外そうに鼻を鳴らした。


「……心配? そんな甘いもんじゃない。俺は、あの人を一人にしている現状に腹を立てているだけだ」


高橋さんは、ふと自分のデスクにある、かつて先輩に叩き直された企画書のファイルに目を落とした。


「……お前らも知ってるだろ。新人の頃の俺が、どれだけ手が付けられない傲慢なガキだったか。『天才の俺がこんな泥舟を救ってやるんだ』なんて、本気で思っていたからな」


そう。高橋さんの「イキり」は社内でも伝説だ。その実力は事実だったが、それゆえに周囲を完全に見下し、上司を論理で論破しては追い詰める、手の付けられない「狂犬」だった。


あの時の高橋さんはマジでやばかった。ミスを指摘されると、「俺の親父は某大企業の役員と知り合いなんですよ」とか「実は俺、天才的なハッカーで、本気を出せばこの会社のセキュリティなんて数秒で」とか言ってたのは有名な話だ。


高橋さんのタチの悪いところが、虚勢でもなく、実際にそれが『できてしまう』ところだ。清水先輩はそれを信じてなさそうだったけど。これは高橋さんには言えない。


「あの時、誰もが俺を腫れ物扱いした。……だけど、あの人だけは違った。清水先輩だけは、俺の鼻をへし折るでもなく、腫れ物にするでもなく、真っ向から冷徹に言ったんだ」


高橋さんの瞳が、遠い記憶をなぞるように細められる。


『高橋さん。あなたの実力が事実であることは認めます。ですが、その能力を周囲のモチベーションを下げるために使うのは、プロとして三流の所業です。……自分の無能さを誇示するのは、もうやめなさい。折角それだけの実力をお持ちなのに、非常に勿体無いですよ?』


「……無能、って言われたんですか? あと勿体無いって? あの清水先輩が?」


鈴木が驚きに目を見開く。


「ああ。能力があるのに結果を組織として最大化できないのは、無能と同じだとな。……あんな小柄な女性に、真っ向から無機質に正論を叩きつけられて、俺は初めて気づいたんだ。……俺は、ただの『寂しい天才ごっこ』をしていただけだって。あの人は、俺の傲慢さの裏にある焦りも、ありのままの俺も、すべて見抜いた上で、一人の部下として育ててくれた。あと、それを言われた日の残業中にコーヒー差し入れてくれて、俺、泣いちゃったんだ」


高橋さんは涙ぐむのを必死に堪え、そっと清水先輩のデスクにあるペン立てを整えた。


「上層部の強面連中に囲まれても、あの人は一歩も引かない。中学生みたいな小さな背中で、論理の剣を振り回して、俺たちの盾になる。……あのギャップ、お前らには分からないか? 守られているのに、守ってあげたくてたまらなくなる、あの狂おしいまでの尊さが」


「……分かります。痛いほど分かりますよ、高橋さん」


俺たちは深く頷いた。俺と鈴木の「推し」という言葉では足りないほどの感情が、高橋さんというさらに深い「信者」の出現によって補強されていく。


「俺は決めてるんだ。……いつか、この地獄のようなプロジェクトをすべて終わらせて、あの人を誰にも文句を言わせない高い場所まで連れて行く。……そして、一人の男として、清水先輩に告白する」


高橋さんが、真剣な眼差しでそう宣言した。


一瞬の沈黙。


そして、俺と鈴木は同時に口を開いた。


「「……いや、それは無理でしょ」」


「なっ、なんだと!?」


高橋さんが顔を赤くして詰め寄ってくる。


「高橋さん、先輩を過小評価しすぎです。あの方は、あなたが跪いた瞬間に『その行動は生産性を著しく下げます。速やかに業務に戻ってください』って一蹴しますよ。秒速で振られます」


「そうですよ。そもそも清水先輩にとって、高橋さんは『性能の良い右腕』であって、それ以上でも以下でもないんですから。人間として恋愛対象になるには、あと五十年は徳を積まないと無理です」


鈴木の冷ややかなツッコミに、高橋さんは「ぐぬぬ……」と唸りながら沈没した。


このオフィスにおいて、清水先輩という存在は、もはや上司という枠を超えた、不可侵の「神域」に等しい。


彼女は自分を「嫌われている」と思い、自分を「冷酷だ」と断じる。


自分を、誰からも愛されない、ただの効率を求める機械だと思い込んでいる。


けれど。


その後ろでは、彼女に救われた男性たちが彼女を崇拝し、彼女に憧れた女性たちが彼女を支えるために必死でスキルを磨いている。


彼女がいつかこの会社を辞める時、恐らくこの部署の全員が、彼女の後を追って辞表を出すだろう。それほどまでに、彼女はこの暗闇の唯一の「意味」だった。


「……あ、戻ってきた」


エレベーターのホールから、聞き慣れた足音が近づいてくる。


コツ、コツ、と、迷いのない、一定のリズム。


自動ドアが開き、小柄な彼女が姿を現した。


役員たちとの激論の後だろうか、その顔は僅かに青白い。けれど、その瞳には凛とした強さが、一分の曇りもなく宿っていた。


「……皆さん、揃って何を遊んでいるのですか。午後の定例会議まで、あと15分しかありませんよ?」


彼女は、俺たちの輪を見るなり、冷たく、けれど澄んだ声で告げた。


「……すみません、清水先輩。今すぐ準備します!」


俺は、誰よりも早く自分のデスクに戻り、キーボードに手を置いた。


隣では鈴木が「はい、分かりました!」と小走りで資料を取りに行き、高橋さんは「……ふふふ。完璧に仕上げてありますよ、清水先輩」と、少し照れたようにモニターに向かった。


清水先輩は、俺たちのそんな反応を見て、微かに眉を寄せた。


恐らく彼女の脳内では、『私の叱責に、部下たちが怯えて即座に作業に戻った。やはり私は嫌われているようだ。……教育とは、辛いものですね』といった、壮絶な勘違いが繰り広げられているのだろう。


尊い、 尊すぎる。


先輩。


あなたは、本当に何も分かっていない。


俺たちが今、どれほど幸せな気持ちで、あなたのその冷たい言葉に応えようとしているか。


あなたが、自分の評価を下げれば下げるほど、俺たちの心の中で、あなたの価値がどれほど天高く上り詰めているか。


「佐藤さん、その資料のグラフのフォントがズレています。修正を」


「はい! 直ちに!」


俺は、弾むような声で返事をした。


この世界が、どれほど不条理で、どれほどブラックだったとしても。


あなたの背中が見えるこの場所だけは、俺たちにとって、世界で一番誇らしい職場なんだ。


いつかあなたが、今の自分を肯定できる日が来るまで。


俺たちは、あなたの「直属の部下」という仮面を被った、世界一熱狂的なファンであり続けるだろう。


神様が不在だったはずのオフィスは、今、一人の小さくて偉大なマネージャーの帰還によって、再び熱い拍動を始めていた。




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