第17話:店主は『自称ないすぼでー魔王』を仲間にした!▼
ミアの寝息が、静かな部屋に規則正しく響き始めた。
先ほどまでのポカポカとした力ない抵抗も今は止み、彼女の小さな掌は、私の指を頼りなく、けれど離すまいとするように握りしめている。
その体温はまだ少し高いけれど、命を削るようなあの苛烈な熱はもうどこにもない。
「……落ち着きましたね、シエル」
背後で、アルテミスが静かに声を漏らした。
振り返ると、彼女は氷水で真っ赤にふやけた自分の指先を隠すこともせず、慈しむような眼差しでベッドの上の少女を見つめていた。
その隣では、魔力を使い果たしたルナが、壁に寄りかかりながら安堵の溜息をついている。
「ええ……。二人とも、本当にありがとうございます。あなたたちが居なければ、この子を救い出すことはできなかったです」
私は心からの謝辞を述べた。
前世の私なら、これは「業務の成功」であり、部下への労いは「査定への反映」という形で処理していただろう。だが、今の私は、この二人が見せてくれた献身が、どれほど貴く、どれほど私の心を救ってくれたかを痛感している。
「いいえ……。シエルが、あんなに必死にこの子の手を握り続けていたから……だから、私たちは頑張れた」
ルナが少し照れくさそうに笑いながら、ミアの枕元まで歩み寄ってきた。
「……魔王様、か。……ふふ、あんなにちっちゃいのに。強がり方が、なんだか昔の自分を見ているみたいで……放っておけないわね」
「そうね。……あんなに必死に『ナイスボデー』なんて言葉を使ってまで、自分を大きく見せようとするなんて。……この子が今日まで、どれだけの悪意に晒されて生きてきたか、想像するだけで胸が痛みます」
私は、ミアの額に残った僅かな汗を、自分のハンカチでそっと拭った。
魔王。三百年に一度の脱皮。
もし彼女の言葉が真実だったとしても、あるいは熱に浮かされた末の妄言だったとしても、私にとっての「事実」は一つしかない。
この子は今、傷つき、居場所を失い、私の宿に辿り着いた。
ならば、その背負っている肩書きが何であろうと、守り抜くのがマネージャー――いいえ、この宿の主としての責任だ。
「アルテミス、ルナ。……少し、休みましょう。この子はもう大丈夫です」
「……はい。でも、店主様こそ。昨夜から一睡もしていないでしょう?」
「私は平気です。……この子が目を覚ました時に、隣に誰もいないと、またあの『独りで果てる』なんて悲しい夢を見てしまうかもしれませんから」
私の言葉に、二人は顔を見合わせ、それから優しく頷いて部屋を後にした。
扉が静かに閉まり、部屋には私と、眠り続ける「自称・魔王」の二人だけが残される。
私は椅子を引き寄せ、彼女の寝顔をじっと見つめた。
思い出すのは、やはり前世のことだ。
私は、部下たちに「強さ」を強要していた。
弱音を吐く暇があるなら進捗を出せ。プライベートの悩みなど業務に関係ない。マネージャーとしての私は、彼らを「使い捨ての歯車」とは言わないまでも、「成果を出すためのリソース」としてしか見ていなかった。
結果として、彼らは私の前で「強い部下」を演じ続け、そしてある日、限界を迎えてポッキリと折れてしまった。
(私は、なんて傲慢だったのかしら……)
彼らだって、本当はこのミアのように、ポカポカと私の胸を叩いて、「本当は辛いんだ」「助けてほしいんだ」と叫びたかったのかもしれない。
それを受け止める余裕も、優しさも、当時の私には欠落していた。
けれど、今は違う。
この宿『木漏れ日』は、そんな「強がり」を脱ぎ捨て、泥だらけの自分を洗い流すための場所なのだ。
「……ナイスボデー、ね。……ふふ、あなたがどんな姿になろうと、私がしっかり見守ってあげます」
私は、彼女が握っている私の指を、空いた方の手でそっと包み込んだ。
彼女の指はまだ細く、爪の間には昨日の泥が僅かに残っている。
目が覚めたら、また丁寧に洗ってあげよう。
そして、彼女が「魔王」としての誇りを語るなら、私はそれを世界で一番のファンとして聞き届けてあげよう。
彼女には、帰る場所がないと言った。
両親もいない、行くあてもない。
そんな絶望の果てに、この宿を選んでくれたのなら。
「……ここが、あなたの家ですよ。ミア」
私は小声で、彼女の耳元に囁いた。
眠っているはずのミアの口元が、心なしか、ほんの少しだけ緩んだような気がした。
私は窓の外に目を向ける。
雨上がりの空は、驚くほど透き通った青色をしていた。
昨日までの嵐が嘘のように、世界は光に満ちている。
この光の下で、私たちは新しく始めるのだ。
最強の騎士、天才魔術師、そして自称・魔王。
世間から見れば、はみ出し者の集まりかもしれない。けれど、私にとっては、どんな一流企業の精鋭チームよりも誇らしく、愛おしい家族たち。
私は、自分の胸に誓った。
二度と、私の「部下(家族)」を絶望の淵に立たせはしない。
誰が相手だろうと、たとえこの世界の神や運命が相手だろうと、私は彼女たちのマネージャーとして、そのすべての悪意から彼女たちを遠ざけてみせる。
「……さて。目が覚めたら、今度はもっと栄養のある、最高に美味しいおかゆを作ってあげないとね」
私は、彼女の手を離さないまま、椅子にもたれかかってそっと目を閉じた。
心地よい疲労感と、それ以上の充実感が、私の心を満たしていく。
明日には、また新しいトラブルが起きるかもしれない。
ミアが起きて、また「魔王なのじゃ!」とイキり散らすかもしれない。
けれど、そんな賑やかな日常こそが、今の私にとっての「最高の報酬」だった。
宿『木漏れ日』の朝は、まだ始まったばかりだ。
私たちは、この温かな場所で、ゆっくりと、けれど着実に、新しい絆を育んでいく。
私は、微睡みの中で、幸せな夢を見た。
そこでは、『ないすぼでー』になったと主張するミアが、やっぱり私になでなでされて、顔を真っ赤にしながらデレデレになっている……そんな、最高に「非合理的」で、最高に「尊い」未来の夢を。




