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第13話:ボロ布かと思いましたが『魔族』を拾いました。


視界のすべてが、冷たい灰色に塗り潰されていた。


空から降り注ぐのは雨というよりは、体温を奪うための無機質な刃の群れだ。


「……っ、はぁ……」


私は、街での買い出しを終えた帰り道を急いでいた。


傘を叩く雨音は激しさを増し、足元の泥濘がブーツを重く引きずり込む。本来なら最短ルートを計算し、一秒でも早く宿の暖炉の前へ戻るべき状況だ。


だが、その「計算」は、道の端に転がっていた「異物」を目にした瞬間に停止した。


「…………え?」


倒木の根元。泥水が溜まった窪みに、それは半分埋まるようにして転がっていた。


最初は、誰かが捨てた汚れた毛布かと思った。あるいは、剥ぎ取られた獣の皮か。


だが、その隙間から、白く、細い、あまりにも脆そうな「指先」が覗いているのが見えた。


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


私は荷物を地面に放り出し、泥の中に膝をついた。高価な街着が汚れ、雨水が膝から染み込んでくるのも構わず、そのボロボロの布――かつては高貴な装束だったであろう「成れ果て」を捲り上げた。


「……っ、これは……」


言葉が喉に張り付いた。


そこにいたのは、白銀の髪を泥にまみれさせ、死人のように顔を蒼白にした、小さな女の子だった。


頭からは、不釣り合いなほど立派な、けれど今はひび割れてツヤを失った二本の角が生えている。


魔族の子。それが何故、こんな人里離れた森で、たった一人で死に直面しているのか。


「……あ、ぅ……」


少女の唇は紫色に変色し、ガチガチと歯の根が合わないほど震えている。


泥を啜ったのか、口端には汚れた水の跡があり、剥き出しになった足首は冷気にさらされて赤黒く腫れ上がっていた。


「……お……らぬか…………誰か……」


少女の手が、力なく泥を掻く。


その瞳は、焦点が合っておらず、ただ虚無を見つめていた。


その瞳を見た瞬間、私の脳裏に、前世の忌まわしい記憶がフラッシュバックする。


深夜のオフィス、過労で意識を失い、机から崩れ落ちた部下の姿。助けを求めることさえ忘れ、ただ「会社の歯車」として使い潰されていった者たちの、絶望の目。


「…………っ!」


気づけば、私は彼女の手を握りしめていた。


冷たい。まるで氷に触れているようだ。心拍は微弱で、今この瞬間にも、彼女という「命」の灯火が吹き消されようとしている。


「……いいですか、聞きなさい」


私は震える声を抑え、努めて冷静に……けれど、祈るような強さで彼女に語りかけた。


「……私は、宿屋の店主です。……今から貴方を私の宿に運びます」


「……わら……わを……。……ころ……すのか……?」


少女の掠れた声。その中には、世界中から拒絶されてきた者の深い孤独と、死への恐怖が混じり合っていた。


「殺しません。……絶対に、死なせません。……私の宿の客となった以上、運命であってもあなたを連れ去ることは不可能です。……いいですね?」


私は、彼女をボロボロの布ごと抱き上げた。


軽い。あまりに軽すぎる。


まるで中身が空っぽの抜け殻を抱いているような、空ろな感触に胸が締め付けられる。


少女は最初、ビクリと体を強張らせたが、私の胸元のわずかな体温を感知した瞬間、まるで嵐の中の小鳥のように、私の服に顔を埋めてきた。


「……あったか……い…………」


その一言が、私の心臓を激しく揺さぶる。


温かい。ただの体温。それすら、この子はどれほどの時間、奪われ続けてきたのか。


「……ええ、温かいですよ。宿に戻れば、もっと温かいお風呂も、スープも、フカフカのベッドもあります。……だから、まだ寝てはいけません。……目を開けていなさい」


私は傘を放り捨てた。片手で彼女を抱き込み、もう片方の手で彼女が濡れないように自分の外套で包み込む。


視界は雨で霞み、足元は滑る。けれど、私は一歩も立ち止まらなかった。


彼女が何者であろうと関係ない。


魔族だろうが、今の私には「放っておけないほどボロボロの迷子」でしかない。


前世で、部下を見過ごしてしまったあの日の後悔を、私は二度と繰り返さない。


「わら……わ、は……魔……ミア。……捨て、……置け……人間」


拒絶の言葉をなんとか紡ぎ出す、ミアと名乗る魔族の少女。


しかし、私は彼女の言葉を冷徹に切り捨てる。


「……お節介だと言われても構いません。……私は、あなたを救います」


泥まみれの森を駆け抜け、私は光の漏れる場所――私の宿へと、死に物狂いで足を動かし続けた。



 ◆



宿『木漏れ日』の扉を、私は肩で押し開けるようにして飛び込んだ。


「アルテミス! ルナ! すぐにお湯を! ありったけの毛布と、一番栄養価の高いスープの準備をしてください!」


私の叫び声に近い指示に、ロビーにいた二人が弾かれたように立ち上がる。


「シエル!? その泥だらけの塊は……」


「説明は後です。……この子の命に関わります。早く!」


私は二人に後を任せ、腕の中の少女――ミアを抱えたまま、迷わず脱衣所へと駆け込んだ。


外套を脱ぎ捨て、ミアを包んでいたボロボロの布を剥ぎ取る。そこから現れたのは、泥と血、そして雨水が混じり合って、肌にこびりついた痛々しい姿だった。


「……ひどい……」


改めて直視したその体は、私の想像を絶していた。


この魔族の特性の影響か、肌のあちこちがひび割れ、そこから滲んだ魔力が冷気に触れて黒い痣のように変色している。小さな二本の角も、根元から泥が入り込み、見る影もない。


「……や……め……ろ……」


ミアの瞳が、僅かに開いた。意識が混濁している。


「……妾を……洗うなど……不遜な……。……殺せ。泥の中で……死なせて……くれ……」


「黙りなさい」


私は彼女の弱々しい拒絶を、静かな、けれど断固とした声で遮った。


浴室に、アルテミスが魔法で沸かせたばかりの湯気が立ち込める。


私はミアを膝の上に乗せ、まずはぬるま湯で、彼女の体にこびりついた「絶望」をふやかしていく。


「……熱い……いやだ……」


「熱くありません。あなたの体が冷えすぎているだけです」


私は、手ずから石鹸を泡立てた。


前世で、徹夜明けの部下の肩を叩いた時のような、微かな震えが指先にあった。だが、今はその震えを押し殺し、極上の柔らかいタオルに泡を含ませる。


まずは、泥に塗れた細い足から。


優しく、慈しむように、泡で包み込みながら汚れを拭っていく。


一拭きするごとに、黒い泥の下から、雪のように白い、けれど透き通るほど脆い肌が姿を現す。


「……あ、……ぁ……」


ミアの小さな指先が、私の腕をぎゅっと掴んだ。爪が食い込み、痛みを感じる。だが、私は手を止めない。


次に、冷え切った腹部。そして、骨が浮き出るほど痩せた背中。


私は言葉を失った。この小さな体で、彼女はどれほどの孤独を、どれほどの悪意を背負って歩いてきたのだろうか。


「……なぜ……。……なぜ、見ず知らずの妾を……。……利用する価値など……どこにも……」


「価値があるかないかを決めるのは、私です。……そして私の基準では、ボロボロの子供を磨き上げること以上に優先されるべき『業務』など存在しません」


私は、彼女の頭に手を置いた。


泥だらけの白銀の髪。それを、指の腹を使って一本一本解きほぐすように洗っていく。


角の根元に残った汚れも、細心の注意を払って取り除く。


やがて、彼女を湯船へと沈めた。


溢れ出す湯が、彼女の全身を包み込む。


その瞬間だった。


「……っ、ふ……あ…………」


ミアの目から、大粒の涙が溢れ出した。


雨水でもなく、泥水でもない。熱を帯びた、本当の涙。


「……あったかい…………本当に…………あったかいのじゃ…………」


震える声で、彼女は泣いた。


ただの幼い子供のように、私の胸に顔を埋めて声を上げて泣きじゃくった。


私は、彼女の背中を、ゆっくりと、リズムを刻むように叩き続ける。


「……ええ。もう大丈夫です。ここは、誰もあなたを傷つけない宿ですから」


湯気の中に、彼女の嗚咽が溶けていく。


泥が落ち、肌が輝きを取り戻すにつれ、彼女を縛り付けていた呪縛が解けていくのがわかった。


私は、彼女の涙を拭わない。


それは、彼女が今日まで一人で耐え抜いてきた、冷たい記憶を排泄するための必要な過程だからだ。


「……さて。洗浄はこれで完了です」


私は彼女を大きなバスタオルで包み込み、そのまま抱き上げた。


湯上がりの彼女からは、泥の臭いではなく、清潔な石鹸の香りと、生きようとする生命の匂いがした。


「次は、食事。栄養摂取ですよ。……私の宿の料理を残すことは許しませんから、覚悟しておいてください」


私の冗談めかした言葉に、ミアは涙を浮かべたまま、「……傲慢な……店主じゃ……」と、ほんの少しだけ、子供らしい笑みを漏らした。



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