第12話:『なでなで』が止まりません!
――宿『木漏れ日』の午前十時。それは、本来であれば「最も効率的に業務を遂行すべき時間帯」である。
「シエル! 見て、これ! 魔法で磨き上げた銀食器よ! 私の魔力制御、完璧だと思わない!?」
食堂で声を上げたのは、ルナだった。
彼女は自分の身長ほどもある巨大なトレイを掲げ、まるで勲章でも見せるかのように胸を張っている。
その顔は「褒めて、早く褒めて!」と無言で叫んでいる忠犬のようだ。
「……ルナ。確かに輝度は基準値を上回っていますが、反射率が高すぎて、お客様の視覚に害を与える可能性があります。……それに、鼻の頭に煤がついていますよ」
「ひゃっ!? な、なによ、せっかくあんたのために……っ」
私が指先で彼女の鼻先を軽く拭うと、ルナは一瞬でフリーズした。
ツインテールがピンと直立し、顔面がボッと音を立てそうなほど真っ赤に染まる。
「あ……ぅ…………あ、あんた、そういうこと、さらっと……っ。……もう、責任を取りなさいよぉ!」
ルナがふらふらと、私のエプロンの裾を掴んで縋り付いてくる。
……前世の部下なら、私の指摘に「すみません、修正します」と青ざめて立ち去ったはずだ。
なぜこの「従業員」は、ミスを指摘されてこれほどまでに嬉しそうな反応を示すのか。私には理解できない挙動だ。
「……シエル。……ルナだけではない。私も、庭の薪割りを完了させた」
そこへ、アルテミスが戻ってきた。
彼女は汗を拭いながらも、どこか誇らしげに、私に自分の「手」を見せてきた。
「……アルテミス。薪のサイズは均一ですか? 燃焼効率に影響しますが」
「完璧だ。……だが、その、少しだけ頑張りすぎたようで……。……ここ、少し痛むんだ」
彼女が差し出した手のひらには、小さな肉刺ができていた。
王国最強とまで謳われた騎士が、薪割りごときでこれほど無防備な負傷を報告してくるとは。……通常なら、自己管理不足として減点対象だ。
「……やれやれ。手当を行います。……こちらへ」
私はアルテミスの手をとり、その掌に魔法薬を塗り、そっと自分の唇で……息を吹きかけて馴染ませた。
「っ……!? し、シエル……っ」
「……冷却処置です。痛覚情報の伝達を阻害するための合理的手段ですが、……何か?」
アルテミスは真っ赤な顔をして、蛇に睨まれた蛙のように硬直している。
……おかしい。
前世の私は、部下が怪我をすれば「産業医の診察を受け、診断書を提出しなさい」と事務的に突き放していた。
それなのに、今の私は、自分の「手」で彼女たちに触れることに、全くの非効率を感じていない。
「……あんた、アルテミスにだけ、そんな……っ! 私だって、私だってさっき、煤を拭いてもらった時に、ちょっと……その、ドキドキしたんだからね!」
ルナが横から割り込んでくる。
彼女は私の腕をぐいぐいと引き、自分の頬を差し出してきた。
「さあ! こっちも点検しなさいよ! 不公平よ! ほら、ここ、まだ汚れが残ってるかもしれないわよ!」
「……ルナ。顔面の感情表現が激しすぎます。……落ち着きなさい」
私は、右手にアルテミスの掌を、左腕にルナの抱きつきを受けながら、立ち尽くした。
前世の私は、部下たちを「嫌な思いをさせないように」遠ざけていた。
私の言葉は刃だと思っていた。私の存在は、彼らのストレス値を増やすだけの害悪だと思っていた。
なのに。
この二人は、私の「従業員」という無機質な言葉を、まるで「愛称」であるかのように受け入れ、私の冷たい指先を、熱烈に求めてくる。
「……シエル」
「……シエル……」
二人の瞳が、期待に満ちて私を見つめる。
……かわいい。
その四文字を弾き出した瞬間、私の心臓が、設計外の鼓動を刻んだ。
「……っ。……業務に支障が出ます。二人とも、少し離れなさい」
私は動揺を隠すように背を向けた。
背中で、二人が「あ、逃げた!」「シエルが照れたぞ!」と、楽しそうに騒いでいるのが聞こえる。
――嫌われている。
その、長年私を縛り付けてきた「自己評価」という名の非効率な感情が、彼女たちの無邪気な笑い声によって、少しずつ、上書きされていくのを感じていた。
◆
――夜。宿『木漏れ日』を静寂が包み、窓の外では銀色の月光が木々を濡らしている。
私は自室の椅子に深く腰掛け、今日の運営日誌を整理していた。
前世の私なら、この時間は「誰にも邪魔されない、最も効率的な孤独な労働」だった。部下たちに嫌われ、恐れられ、背後で囁かれる「鉄面皮」という言葉を遮断して、ただ数字だけを信じていた時間。
けれど。
「……失礼する、シエル」
「ちょっと! 私の方が先だったでしょ、アルテミス!」
ノックもそこそこに、扉が左右に開かれた。
パジャマ姿のアルテミスと、同じく寝巻きに着替えてツインテールを少し緩めたルナが、競い合うように室内へ雪崩れ込んでくる。
「……二人とも。就寝して休息の確保を最優先すべき時間ですが」
「無理よ! 今日の『夜間のお手入れ』が終わってないんだから!」
「……ああ。一日働いた私の体力は、今、非常に不安定なんだ。シエルの『なでなで』がなければ、明日への稼働に支障が出る」
二人は私の左右に立ち、物欲しげな瞳で私を見下ろしてくる。
……前世の私なら、「甘えるのはやめなさい」と一蹴していただろう。部下に弱さを見せることは、組織の規律を乱すことだと思っていたから。
でも。私は、自分の膝を軽く叩いた。
「……順番を待つのは非効率ですね。二人同時に行います。……乗りなさい」
「「…………え?」」
二人が絶句する。私は無表情のまま、左右の膝をそれぞれ解放した。
「……不満ですか? 個別対応では、あなたたちの待機時間が二倍になります。……最適解は、同時並行です」
「……あ、あんたって、時々凄いわよね……っ。……じゃあ、失礼するわよっ!」
「……店主の命令なら、拒む理由はない」
ルナが右に、アルテミスが左に。私の膝の上に、二人の温かい体温が乗る。
「……っ…………あ……」
膝から伝わってくる、確かな「重み」。
彼女たちの甘い香りと、柔らかな肌の感触。
前世の私は、これを「汚れ」だと思っていた。
他人の人生に深入りし、感情を共有することは、無駄なことだと信じて疑わなかった。
部下を愛さないことが、部下を守ることだと思い込んでいたのだ。
「……シエル? ……手が、止まっているが」
アルテミスが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「……いいえ。……少し、かつての自分を思い出していただけです」
私は静かに手を伸ばし、二人の頭に同時に触れた。
ルナのふわふわとしたツインテールの感触と、アルテミスの凛とした銀髪の滑らかさ。
「……私は、不器用な管理者です」
なでなで、と。ゆっくり、慈しむように、事務的な速度を完全に無視して、指を動かす。
「……私は、以前の私は誰にも慕われない、ただの冷酷な歯車でした。……私は、部下たちに嫌われているのだと、最期まで思い込んでいた」
「……そんなわけ、ないじゃない」
ルナが、私の手に自分の手を重ね、ぎゅっと握った。
「……あんた、こんなに温かくて、こんなに優しい手をしてるのに。……気づかない方がバカよ」
「……ああ。シエルの言葉は少し硬いが、その指先からは、驚くほど深い『心配』を感じる。……私たちは、嫌いな奴にこんな風に身体を預けたりしない」
アルテミスが、私の肩に頭を預けて、小さく、満足そうに吐息を漏らす。
「…………。……そうですか」
視界が少しぼやける。前世の私が、ずっと、ずっと聞きたかった言葉。
少なくとも、今目の前にいる私が守りたい人たちは、私のことを嫌ってなどいなかった。
「……二人とも。……不規則な挙動が多いですが、……あなたたちは、私の大切な『従業員』……いえ」
私は、二人の頬を、両手で包み込んだ。初めて、自分の意志で、計算を度外視して。
「……かわいいですよ。……私の側にいてくれて、……ありがとうございます」
「「…………っっっ!!!!」」
爆発音が聞こえた気がした。
膝の上の二人が、顔を真っ赤にして、茹で上がったカニのように硬直する。
ルナは「な、ななな、何をさらっと告白してんのよぉっ!」と叫んで私の胸に顔を埋め、アルテミスは「……卑怯だ……その顔で言われるのは……」と、騎士の誇りをどこかへ投げ捨てて私にしがみついてきた。
……ああ。
宿『木漏れ日』の夜は、最高に非効率で、最高に温かい。
私は、彼女たちの温もりに包まれながら、かつての孤独な自分に告げた。
――私は今、世界で一番幸せな「マネージャー」ですよ、と。




