第11話:『前世』の私。
――「この案件の進捗、もう限界です……」
深夜二時。蛍光灯がジジジと不吉な音を立てるオフィスで、部下の青年が力なく机に突っ伏した。
私は、モニターの冷たい光を眼鏡の奥に反射させながら、淡々とキーボードを叩く音を止めなかった。
「残り三五%のタスクですね。……田中さん、あなたの処理速度は現在、ピーク時の四〇%まで低下しています。このまま業務を続けてもエラー率が上昇するだけです」
私は一度も彼を見ることなく、冷徹な事務口調で告げた。
「えっ……でも、明日までにこれを上げないと……」
「……三〇分以内に退勤しなさい。これは命令です。タクシーの手配は済ませました。残りの工程は、私がすべて『処理』します」
田中さんは、絶望したような、あるいは恐怖に震えているような顔で私を見た。
……ああ、またやってしまった。
私は心の中で、小さく、誰にも聞こえない溜息をつく。
本当は、「無理をしないで。あとは私がやっておくから、ゆっくり休んでね」と言いたかった。けれど、私の口から出るのは、いつもプログラムの実行命令のような無機質な言葉だけだった。
「……す、すみませんっ……!」
彼は逃げるようにオフィスを飛び出していった。
一人残された静寂の中で、私は彼の分のタスクを自分のモニターに引き受ける。
私は、自分が部下たちにどう思われているかを知っている。
「鉄面皮の魔女」「心を持たない管理マシーン」。
私が彼らを早く帰すのは、ただ彼らの健康を心配しているからなのに。
私が彼らのミスを無言で修正するのは、彼らのキャリアに傷がつかないようにするためなのに。
結局、私は死ぬまで、誰とも心を……通わせることはできなかった。
私は、嫌われていた。
冷たく、可愛げのない、ただ効率だけを求める歯車として、私はあの世界で一生を終えたのだ。
……そう、思っていた。
「……ん…………ぅ……」
柔らかい、陽だまりのような温かさが頬に触れた。
私はゆっくりと瞼を開ける。
そこは、あの殺風景なオフィスではなく、木漏れ日が差し込む宿『木漏れ日』の私室だった。
「……シエル。……おはようございます」
目の前にあったのは、銀色の髪を朝日に輝かせたアルテミスの顔だった。
彼女は、私のベッドの傍らに跪き、私のシーツの端を整えていた。
「……アルテミス。起床予定時刻の五分前です。在庫の稼働準備としては、少し早すぎませんか?」
私は身体を起こし、いつもの事務的な口調で応じる。
前世からの癖だ。起きた瞬間から、私は「管理者」としての仮面を被らなければならない。そうしないと、この不器用な自分をどう扱っていいか分からないから。
「……申し訳ありません。ですが、シエルの寝顔があまりに……その、穏やかだったので。……つい、見惚れてしまいました」
アルテミスが、騎士らしからぬ恥じらいを浮かべて視線を逸らす。
……見惚れる? 何を言っているのだろう、この子は。
私の顔なんて、感情の動かない無機質な部品の一つに過ぎないのに。
「……異常ですね。目が腐ってるんじゃないですか? ……それより、隣の部屋で、妙な物音がしていますが」
私が指摘する間もなく、バタン!と勢いよく扉が開いた。
「シエルぅー! 大変よ! あ、あんたの、あんたのせいよ!」
飛び込んできたのは、ツインテールをボサボサに振り乱したルナだった。
彼女は寝巻き姿のまま、私の布団にダイブしてくる。
「……ルナ。プライベートスペースへの無断侵入は、管理規約違反です。……して、トラブルの内容は?」
「魔法よ! 寝ぼけて、部屋の加湿魔法を暴走させちゃったのよ! 部屋が雲の中みたいになっちゃって……っ、も、もう、どうにかしてよぉ!」
ルナが私の腕に縋り付いてくる。
……前世の私なら、ここで「自己責任です。マニュアルを読んで対処しなさい」と突き放していただろう。
でも、今の私は。
「……やれやれ。……従業員の管理も楽ではありませんね」
私は無表情のまま、ルナの頭を軽く撫でた。
すると、彼女は驚いたように目を見開き、それから……茹で上がったように顔を真っ赤にして、私の胸元に顔を埋めた。
「……な、なでれば解決すると思ってるんでしょ! 正解よ! もっとやりなさいよ!」
アルテミスも、それを見て微かに頬を膨らませる。
「……シエル。……私にも、朝の『なでなで』を。……不公平は、組織の士気を下げます」
……ああ。私は、やはり「管理」が下手なのだ。
前世では嫌われ、今世では、こうして在庫たちに甘えられ、収集がつかない。
けれど。
私の指先に触れる、彼女たちの髪の柔らかさと、伝わってくる確かな体温。
……この「温かさ」は、オフィスで一人キーボードを叩いていた時には、決して得られなかったものだ。
「……分かりました。朝食の前に、一〇分だけ『一斉なでなで』を行います。……さあ、二人とも、整列してください」
私は無表情のまま……けれど、心臓の奥に小さな、小さな「温かみ」を感じながら、新しい一日を開始した。




