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第10話:店主は『天才魔術師』を仲間にした!▼


――負けた。


天才魔術師として、そして親友として、私は完全にこの女主人に敗北した。


「……お手入れ終了です。血流量が安定しましたね。……ルナ様」


「ふぇっ!? あ、あ……う、うん。……え、いま、名前……?」


私は、シエルの膝から力なく頭を上げ、潤んだ瞳で彼女を見上げた。


思考能力はゼロだ。魔力回路が彼女の指先によって「最適化」されたせいで、全身がマシュマロみたいにふわふわして、立ち上がることもままならない。


今、名前を呼ばれたような気がしたけれど、私の脳は「心地いい……」という信号を処理するだけで手一杯で、危機感なんて一ミリも働かなかった。


「……あ、あの……シエル……さん? これ、いくら……? もう一回、おかわりとか……」


「追加発注は翌日以降の予約制です。……それより、お連れ様が夕食の準備を終えたようです。食堂へどうぞ」


「お連れ様……? ああ、そうだったわ、私はアルテミスの奴隷生活を暴きに来た……んだったわよね……多分」


おぼつかない足取りで、私は食堂へと向かった。


フードを深く被り直し、眼鏡の位置を直す。


……大丈夫。まだ私の正体はバレていない。


たとえさっきシエルに少し(?)トロけさせられたとしても、アルテミスにさえバレなければ、私の潜入調査は継続できる。


食堂の扉を開けると、そこには、香ばしいパンとハーブの香りが満ちていた。


そして。


「いらっしゃいませ。……本日のディナーをお持ちしました」


そこに立っていたのは、銀色の髪を後ろでまとめ、フリル付きのエプロンを完璧に着こなしたアルテミスだった。


……さっき窓から見た時よりも、ずっと近い。


騎士の時には決して見せなかった、柔らかい微笑み。その手には、重い剣ではなく、温かいスープの皿が乗っている。


「……っ(尊い)」


私は、心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に抑えた。


ダメ。可愛い。


あんなに不器用だった幼馴染が、一生懸命にお客(私)のために料理を運んでいる。その姿は、勇者の後ろで泥にまみれていた時より、何万倍も輝いて見えた。


「……どうぞ。……何か、お口に合わないものでも?」


「あ、い、いえ! なんでもないわ! ……美味しそうね、ありがとう……」


私は声を低くして、震える手でスプーンを取った。


一口。……う、うっま。


なによこれ。冒険の時に食べていた、あの味のしない保存食は何だったの?


「……美味しいか。……よかった。シエルに教わって、私が初めて作ったスープなんだ」


アルテミスが、少し照れくさそうに頬を掻きながら、私の隣に立った。


……シエルに教わって? あんな、感情のなさそうな女に、こんなに優しい味を教わったっていうの?


「……あの、店主さん……シエルさんは、怖くないの? あんたを奴隷みたいに扱ってるんじゃ……」


私は思わず、変装していることを忘れて、素の声で尋ねてしまった。


アルテミスは、一瞬驚いたように私を見た後、窓の外……厨房で作業をするシエルの背中に目を細めた。


「怖い? まさか。……彼女は、私に『居場所』をくれた人だ。……戦場にいた時は、私はただの『壁』だった。でもシエルは、私を『アルテミス』という名の資源……大切な部品だと言ってくれる。……あんなに不器用で、でも温かい『管理』を、私は他に知らない」


アルテミスは、愛おしそうに自分のエプロンの裾を握った。


「……だから、私はここにいたいんだ。……ルナ。……お前にも、この安らぎをいつか教えたかった」


「…………え?」


今、なんて?  私は固まったまま、アルテミスを見上げた。


彼女は、私の丸眼鏡とフードの奥にある瞳を、真っ直ぐに見つめていた。


……最初から、バレてたの!?


「……お前の魔力の残滓を、私が忘れるはずがないだろう。……幼馴染なんだから」


「………………ッ、あ、あああああああ!」


私は、椅子から転げ落ちる勢いで立ち上がった。


顔から火が出るどころじゃない。全身が火柱になりそうだった。


バレてた。


潜入調査(笑)も、茂みの中での悶絶も、シエルに膝枕されてトロけていたところも、全部、全部アルテミスに筒抜けだったんだわ!


「あ、あんた……! な、何よ! 最初から知ってたなら言いなさいよ! ……っていうか、何あのお昼の膝枕! あんなの、あんなの……ズルすぎるじゃない!」


「ルナ。……お前も、だいぶシエルに『お手入れ』されたようだな。……耳まで赤いぞ」


「う、うるさいわよ! これは、その、スープが熱かっただけなんだから!」


私は叫びながらも、アルテミスに手を引かれて、再び席に座らされた。


悔しい。


親友を救いに来たつもりが、親友に「幸せな姿」を見せつけられて、おまけに自分までその幸せのお裾分け(なでなで)を頂いてしまった。


「……ルナ様。追加のオプション料金ですが」


いつの間にか背後に立っていたシエルが、事務的に請求書のようなものを差し出してきた。


「……あなたの魔力は非常に希少なリソースです。よろしければ、この宿の『夜間防衛・魔力供給担当』として、長期契約(宿泊)をしませんか? ……報酬は、毎日三度の食事と、私の『管理』……つまり、なでなで一回分込みで、いかがでしょう」


「な……なでなで込みって、あんた、人をそんな……安い条件で……っ」


私はアルテミスを見た。


彼女は、「……悪くないぞ、ルナ。シエルのなでなでは、世界一だ」と、嬉しそうに頷いている。


「…………っ、……も、もう。……一週間だけよ! あんたが本当に幸せなのか、私がしっかり見極めてあげるんだから!」


私は、真っ赤な顔でシエルの差し出した「契約書」に、震える手でサインした。


――天才魔術師ルナ。


勇者パーティを見捨て、親友を追ってきた彼女が、宿屋『木漏れ日』の「従業員2号」として登録された瞬間だった。


シエルは、無表情な唇をほんの、ほんの少しだけ吊り上げた。


「……交渉成立ですね。……さあ、在庫が揃ったところで、夕食の続きを始めましょうか」


宿屋の夜は、まだ始まったばかり。


勇者たちが泥を啜っている頃、辺境の宿では、二人の最強のリソースが、一人の女主人の「従業員管理」によって、とろとろに溶かされようとしていた。




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