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第1話:死ぬほど働いたので、今世は『宿屋』でまったり

こんばんは。駄駄駄ダダダと申します。

メインの主戦場はカクヨムで、百合×スローライフ専門のニッチな分野を攻める作家です。

カクヨムでは現時点で70話ほど先行公開しております。その他に8作ほど長編があります。

もしよければ、プロフィールからカクヨムの方もチェックいただけますと幸いです。


視界の端で、世界が音を立てて崩落していくのが見えた。


午前3時。深夜のオフィスを支配するのは、サーバーの駆動音と、誰かが啜るカップ麺の匂い。そして、止まることを知らないチャットツールの通知音だけだ。


ブルーライトに焼かれた私の瞳は、もう色を判別することを拒否し、画面上の文字列を単なる無機質な記号として処理し始めている。


「先輩……あの、これ……やっぱりエラーが取れなくて……っ」


隣のデスクで、入社2年目の後輩の鈴木さんが泣きそうな声を上げた。いや、もう半分泣いている。彼女の頬は土気色で、3日前のフレッシュな面影はどこにもない。


私は、マウスを動かす指を止めずに答えた。


「そのソース、こっちに投げて。私がやっておくから」


「でも、先輩だって、もう3日も……」


「いいから、寝なさい。これは命令じゃなくて、効率の問題よ」


慈愛? そんな高尚なものじゃない。


ただ、彼女にこれ以上任せておくと、後で私が修正する手間が倍になる。それだけの話だ。


前世の私は、とにかく仕事ができた。そして、仕事ができすぎる人間には、できない人間の分まで仕事が降ってくる。この理不尽な世界の不条理(バグ)を、私は「仕方ない」と諦めて受け入れていた。


部下たちのミスを無表情でカバーし、上層部の無茶振りを論理的にいなし、気づけば「氷の女神」なんて呼ばれていたけれど。


その実態は、残業代も出ないのに「責任感」という名の呪いに縛られた、ただの社畜だ。


キーボードを叩く。カチャカチャという乾いた音が、静かなオフィスに響く。


……あ、今、脳のどこかで何かが切れたな。


ふと、そんな自覚があった。


心臓が、自分の意志とは関係なく、不規則なリズムを刻み始める。


ああ、これは、クライアントに謝罪メールを送る前に、私の人生が終わってしまう。


「……先輩? あの、先輩……?」


後輩の呼ぶ声が、どんどん遠くなっていく。


最後に見たのは、泣きじゃくる彼女の顔だった。私は死にゆく意識の淵で、それでも「仕事」のことを考えていた。


(……明日の会議の資料、デスクトップの『重要』フォルダに入れておいたから。明日は定時で、帰りなさい……)


それが、私の遺言だった。


もっと、静かな場所で働きたかった。


誰の責任も負わず、誰に利用されることもなく。


ただ、自分の手の届く範囲の人間だけに、完璧なサービスを提供して、あとはゆっくり眠る。


そんな当たり前の平穏が、欲しかっただけなのに。



 ◆



意識が浮上したとき、そこにはブルーライトの眩しさも、コーヒーの苦い匂いもなかった。


代わりに鼻腔をくすぐったのは、焼きたてのパンの香ばしさと、どこか懐かしい薬草の香り。


窓から差し込む陽光は、オフィスの蛍光灯とは比べものにならないほど柔らかく、私の新しい体を包み込んでいる。


「……ふぅ。今日も、シーツの糊付けは完璧ですね」


私は鏡の前で、自分の姿を確認する。


そこに映っているのは、前世の私と似ても似つかない、小柄な少女の姿だ。


年は18、といったところだろうか。しかし身長は低く、下手をすれば中学生に見られかねないほど華奢だ。


髪は清潔感のある淡い色で、仕事の邪魔にならないよう、後ろでカッチリとまとめられている。


服装は、露出を極限まで抑えた、ロングスカートのクラシックなエプロンドレス。


これぞ、宿屋の女主人。これぞ、私が求めていた理想の「制服」だ。


ここは、前世で暇つぶしに遊んでいたRPG『アステリア・ファンタジア』の世界。


たしか兄のゲームを貰い受けたのだったか。でも、もうほとんどゲームの記憶はない。


私は、物語に一文字も名前が出てこない、街道沿いの宿屋『木漏れ日』のモブ店主として転生していた。


最高だ。


前世で感情をすり減らしすぎたせいか、あるいは過労死のショックのせいか。


今の私には、他人に対してドキドキしたり、色恋沙汰にうつつを抜かしたりする「感情の起伏」が、綺麗さっぱりショートして存在しない。


いわゆる『失感情症』というのか。だが、それがいい。


プロの接客には、余計な私情は不要なのだ。


私は一階に降り、宿の前の街道を眺める。


今日はひどい雨だ。


こんな日は、客足も鈍る。床を磨き直すか、あるいはリネンの在庫チェックでもしようか。


そう考えていた時、外で不快な声が響いた。


「――だからさ、君はもう『壊れた盾』なんだよ。わかる?」


雨音に混じって聞こえてきたのは、高く、それでいて芯のない、不自然に明るい男の声。


私は窓に歩み寄り、汚れ一つないガラス越しに外を見た。


そこには、三人の男女がいた。


一人は、いかにも「選ばれし者」といった風情の、キラキラとした装備を身に纏った男。このゲームの主人公である「勇者」だ。


その隣には、彼に寄り添うようにして立つ聖女。


そして、泥の中に膝をついている、もう一人の女性。


銀色の鎧は無惨にひび割れ、隙間からはどす黒い血が流れ出している。


このゲームにおける最強の聖騎士、アルテミス。


本来なら物語の主軸を担うはずの彼女が、今はボロ雑巾のように扱われている。


「君をパーティに入れておいたのは、僕と彼女を守るため。でも、今の君はもうボロボロでしょ? 攻撃を凌ぎきれずに魔術師の子まで傷つかせちゃうなんて、戦略上のミスだよ。あの子、怒ってどっか行っちゃったじゃないか」


勇者は、ナヨナヨとした仕草で髪をかき上げ、冷たい言葉を投げつける。


「というわけで、君はここで解雇。……行こう、聖女。新しい『盾』を探さないとね」


騎士が泥溜の中に倒れ込んだ。


勇者は、一度も振り返ることなく、聖女の手を引いて雨の向こうへと去っていった。


残されたのは、泥に顔を埋め、動かなくなった一人の騎士だけだ。


私は、それを見て、ただ一つだけ思った。


「……あー、ブラック上司ですね。わかります。あれ、部下が心拍停止する直前まで『自己責任』って言い張るタイプだ」


前世の記憶が、私の奥底で静かに反応した。


利用される側。切り捨てられる側。


誰からも顧みられず、泥の中に捨てられたゴミ。


それが、かつての私に重なった。


私はカウンターから一本の傘を取り出し、玄関の扉を開けた。


プロの女主人として、宿の前に死体の「不法投棄」を見逃すわけにはいかない。


それがたとえ、世界を救うはずだった最強の騎士だとしても。


泥の中、ピクリとも動かないアルテミスのそばに寄り、私は静かに傘をさした。


「……いらっしゃいませ。お客様、そのままでは風邪を引かれますよ」


返事はない。だが、それでいい。


意識があろうとなかろうと、行き場のない迷い子を迎え入れるのが、宿屋の仕事なのだから。




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