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婚約破棄? むしろ好都合です~図書館司書になった私の第二の人生~

作者: 小林翼
掲載日:2026/01/30

アステリア・フォン・ヴェルナーは、今朝ほど届いた一通の手紙を、何度目かになる読み返しをしていた。羊皮紙に記された文字は丁寧だが、そこに込められた意味は容赦なく冷たい。


辺境伯爵家ゲルハルト家からの、婚約解消の通知。理由は「家格の相違による将来的な不和の懸念」という、実に当たり障りのない言葉で綴られていた。


「お嬢様」


侍女のマルタが心配そうに声をかけてくる。アステリアは静かに手紙を畳んだ。


「大丈夫よ、マルタ。むしろ、ホッとしているくらいだわ」

「え......?」


マルタの驚いた顔を見て、アステリアは小さく微笑んだ。十七歳の少女にしては落ち着きすぎているかもしれない。だが、これが彼女の本心だった。


ヴェルナー伯爵家は、王都でも名の知れた名門である。代々、学者や官僚を多く輩出してきた家系で、武勲よりも知性を重んじる気風があった。アステリアは三女として生まれ、上には優秀な姉が二人いた。


長女のカタリーナは社交界の花形として名を馳せ、すでに公爵家に嫁いでいる。次女のエレオノーラは宮廷楽団の首席演奏者として活躍中だ。


そして三女のアステリア。彼女が愛したのは、社交でも音楽でもなく、古い書物に囲まれた静かな時間だった。


父である伯爵は、そんな娘を不憫に思ったのだろう。アステリアが十五歳の時、辺境伯爵家ゲルハルト家との縁談を取りまとめた。格上との婚約は、三女にとって破格の条件だった。


だが、アステリアにとってそれは、牢獄への入り口にしか見えなかった。


ゲルハルト家は武勲で成り上がった新興貴族だ。辺境の守りという重責を担い、実利と力を重視する。そこに、本ばかり読んでいる内気な令嬢が嫁いだところで、幸せになれるはずがない。


アステリアはそれを理解していた。だからこそ、この二年間、婚約者であるフリードリヒ・フォン・ゲルハルトと会うたびに、どこか気まずい思いをしていた。


「お父様には、もうお話しになりましたか?」

「いいえ、まだよ。でも、きっと激怒なさるでしょうね」


アステリアの予想は的中した。


書斎に呼ばれたアステリアは、顔を真っ赤にした父と向き合っていた。


「何たる無礼! ゲルハルト家め、我が家を侮辱するにもほどがある!」

「お父様、落ち着いてください」

「落ち着けるものか! お前はヴェルナー家の娘だぞ。格上との縁談を一方的に破棄されて、黙っていられるか!」


父の怒りはもっともだった。貴族社会において、婚約破棄は重大な事件だ。特に相手方からの一方的な破棄は、破棄された側への侮辱と見なされる。


「抗議文を送る。いや、直接乗り込んで……」

「お父様」


アステリアは静かに、しかし明確な声で言った。


「私は、この婚約破棄を受け入れます」

「何を言っている、アステリア!」

「そして、この機会に、一つお願いがあるのです」


父は娘の真剣な眼差しに、一瞬言葉を失った。


「私に、王立図書館の司書見習いとして働くことをお許しください」


書斎に、重い沈黙が降りた。


王立図書館。それは王国最大の知の宝庫であり、何万冊もの蔵書を管理する機関だ。そこで働く司書たちは、単なる本の管理者ではなく、学者としても一流の人材が集まっている。


「馬鹿な......! 貴族の令嬢が、働くだと?」

「姉様方も、それぞれの道を歩んでおられます。カタリーナ姉様は公爵夫人として、エレオノーラ姉様は演奏家として」

「それとこれとは話が違う!」


父の声が書斎に響く。


「お前はまだ十七だ。次の縁談を探せば……」

「お父様、私は結婚したくありません」


アステリアの言葉に、父は目を見開いた。


「少なくとも今は。私は学びたいのです。もっと多くの書物に触れ、知識を深めたい。王立図書館には、ここにはない貴重な文献が無数にあります」

「アステリア......」

「婚約破棄は、むしろ好機でした。これで誰にも遠慮せず、自分の道を選べます」


娘の瞳には、確固たる意志が宿っていた。父は、初めて娘のこんな表情を見た気がした。


「お前は、本気なのだな」

「はい」


長い沈黙の後、父は深いため息をついた。


「分かった。だが、条件がある」

「はい」

「三年だ。三年間、図書館で働くことを許そう。だが、その後はこの家に戻り、きちんと縁談を考えること。それでいいな?」


アステリアの顔に、初めて明るい笑顔が浮かんだ。


「ありがとうございます、お父様!」


こうして、アステリア・フォン・ヴェルナーの新しい人生が始まった。


王立図書館は、王宮の東側に建つ壮麗な建造物だった。三階建ての石造りの建物は、荘厳でありながら、どこか静謐な雰囲気を漂わせている。


アステリアが初めてその門をくぐったのは、春の陽気が心地よい日だった。


「新しい司書見習いの方ですね」


受付で待っていたのは、四十代ほどの痩せた男性だった。眼鏡の奥の目は鋭く、しかし好奇心に満ちている。


「館長のエドヴィン・シュタインと申します。ヴェルナー伯爵からお話は伺っております」

「アステリア・フォン・ヴェルナーです。よろしくお願いいたします」


深々と頭を下げるアステリアに、エドヴィンは少し驚いたようだった。


「ふむ。貴族の令嬢が司書見習いとは珍しい。だが、この図書館では身分は関係ない。重要なのは、書物への愛と、学ぶ意欲だけだ」

「承知しております」

「では、館内をご案内しましょう」


広大な図書館の中を歩きながら、エドヴィンは説明を続けた。一階は一般公開されている閲覧室と貸出カウンター。二階は専門書や古文書を扱う研究室。三階は特に貴重な文献を保管する書庫。


「まずは一階の整理と貸出業務から始めてもらいます。慣れてきたら、書籍の分類や目録作成も任せましょう」

「はい」

「ところで」


エドヴィンが立ち止まり、アステリアを見た。


「なぜ、司書になろうと思ったのですか?」


アステリアは少し考えてから、静かに答えた。


「書物には、時を超えた知恵が詰まっています。人の一生では経験できないことも、本を通じて学べる。そんな宝物を守り、人々に届ける仕事に、意義を感じたのです」


エドヴィンの表情が、わずかに和らいだ。


「良い答えだ。期待していますよ、ヴェルナー嬢」


こうして、アステリアの図書館での日々が始まった。


最初の数週間は、覚えることばかりだった。蔵書の分類方法、貸出の手続き、書籍の扱い方。細かな規則も多く、慣れない作業に戸惑うこともあった。


だが、アステリアは確実に成長していった。もともと読書家だった彼女にとって、書物の内容を理解することは難しくない。むしろ、様々な分野の本に触れられることが、何よりの喜びだった。


「ヴェルナー嬢、この本の配架をお願いできますか?」


同僚の司書、マリアが本を手渡してくる。アステリアより五歳ほど年上の、快活な女性だ。


「もちろんです」

「助かるわ。あなた、本当に仕事が早いわね」

「いえ、まだまだ未熟です」

「謙遜しないで。三ヶ月でここまでできる見習いは珍しいのよ」


マリアの言葉に、アステリアは少し照れたように微笑んだ。


図書館での生活は、想像以上に充実していた。朝早くから夕方まで、書物に囲まれて働く。休憩時間には、興味のある本を読むこともできる。


そして何より、ここには婚約や家格といった重圧がなかった。


伯爵家の三女として生きていた頃は、常に周囲の期待を感じていた。姉たちのように優雅に振る舞い、良い縁談を得て、家の名誉を守る。それが彼女に課せられた役割だった。


だが、今は違う。ここでは、アステリア・フォン・ヴェルナーという個人として扱われる。能力と努力だけが評価される世界。


「自由って、こういうことなんだわ」


ある日、閉館後の静かな図書館で、アステリアは独りごちた。窓から差し込む夕日が、整然と並んだ書棚を照らしている。


その時だった。


「失礼、まだ開いていますか?」


扉が開き、一人の男性が入ってきた。アステリアは振り返る。


「申し訳ございません。本日の開館時間は終了しております」

「そうか......残念だ」


男性は三十代前半ほどだろうか。質素だが品の良い服装。手には羊皮紙の束を抱えている。


「明日は朝の八時から開館しております」

「分かりました。では、明日また来ます」


男性は礼儀正しく頭を下げて去っていった。アステリアは、その後ろ姿を見送りながら、どこか見覚えがあるような気がした。


翌日、その男性は約束通りやってきた。


「昨日はどうも。テオドール・ケラーと申します」

「司書見習いのアステリアです。お探しの資料は?」

「古代帝国の行政制度に関する文献です。できれば一次資料が望ましいのですが」


専門的な要求に、アステリアは少し驚いた。


「それでしたら、二階の研究室にございます。ご案内いたします」


アステリアが案内した先で、テオドールは目を輝かせた。


「これは......『帝国行政法大全』! こんな貴重な本が」

「お詳しいのですね」

「仕事柄、古い法制度を調べることが多いのです」

「法学者の方ですか?」

「ええ、まあ」


テオドールは曖昧に答えた。その後、彼は熱心に資料を読み始めた。


これが、テオドール・ケラーとの出会いだった。


それから、テオドールは頻繁に図書館を訪れるようになった。いつも様々な文献を求め、熱心に研究している。


不思議なことに、アステリアは彼と話すのが楽しかった。テオドールは博識で、しかし決して知識をひけらかさない。むしろ、アステリアの意見にも真剣に耳を傾けてくれる。


「ヴェルナー嬢は、なぜ司書になったのですか?」


ある日、テオドールが尋ねた。


「書物が好きだからです。それと......」


アステリアは少し躊躇してから続けた。


「自分の人生を、自分で選びたかったから」

「自分で選ぶ、か」


テオドールは静かに繰り返した。


「素晴らしいことだと思います。多くの人は、与えられた役割を生きるしかない。自分で選べるというのは、実は大変な贅沢なのです」

「ケラー様は、ご自身の道を選ばれたのですか?」

「私は......」


テオドールは少し考えてから、微笑んだ。


「半分くらいは、選べたと思います」


その曖昧な答えが、かえってアステリアの好奇心をくすぐった。


季節は夏から秋へと移り変わっていった。アステリアの仕事ぶりは、館長のエドヴィンからも高く評価されるようになっていた。


「ヴェルナー嬢、そろそろ目録作成の仕事も任せたいと思っています」

「本当ですか!」


目録作成は、司書の中でも経験を積んだ者だけが任される重要な仕事だ。各書籍の内容を理解し、適切に分類し、後世のために記録を残す。


「あなたの几帳面な性格と、幅広い知識なら、きっとうまくやれるでしょう」

「精一杯努めます」


その日の午後、アステリアは新しい目録作成の仕事に取り組んでいた。古い神学書を手に取り、内容を確認しながら、分類番号を記入していく。


「集中していますね」


声に顔を上げると、テオドールが立っていた。


「ケラー様。今日もいらしていたのですね」

「ええ。でも、邪魔をしてしまいましたか?」

「いえ、ちょうど区切りがついたところです」


アステリアは書物を脇に置いた。


「目録作成の仕事を任されたのです」

「それは素晴らしい。昇進ですね」

「見習いの身で、恐縮なのですが」

「謙遜は美徳ですが、自分の成果は素直に喜んでいいと思いますよ」


テオドールの言葉に、アステリアは小さく笑った。


「ケラー様は、いつも私を励ましてくださいますね」

「励ますつもりはないのです。ただ、事実を述べているだけで」


二人は自然と、図書館の中庭に出た。秋の風が心地よい。


「そういえば」


テオドールが切り出した。


「社交界では、今、ゲルハルト辺境伯の婚約が話題になっているそうですね」


アステリアの表情が、一瞬固まった。


「ご存知なのですか」

「風の噂で。ヴェルナー伯爵家の三女との婚約を破棄し、公爵家の令嬢と婚約したとか」

「......ええ」


アステリアは静かに答えた。


「その三女というのが、私です」


テオドールは驚いた様子で彼女を見た。


「そうでしたか。それは......失礼なことを」

「いいえ、気にしていません。むしろ、あの婚約破棄があったからこそ、今ここにいられるのですから」


アステリアの表情は穏やかだった。


「後悔はないのですか?」

「全く。辺境伯爵夫人として生きるより、ここで司書として働く方が、私には合っています」


その言葉には、一片の迷いもなかった。


「あなたは、本当に強い方だ」


テオドールの言葉に、アステリアは首を傾げた。


「強い? 私が?」

「ええ。自分の幸せを、自分で定義できる人は少ない。多くの人は、世間の価値観に流されてしまう」

「ケラー様こそ、いつも深いことをおっしゃいますね」


二人は、しばらく黙って中庭の景色を眺めていた。紅葉し始めた木々が、秋の深まりを告げている。


「ヴェルナー嬢」

「はい?」

「もし差し支えなければ、今度一緒に食事でもいかがですか」


テオドールの突然の申し出に、アステリアは目を丸くした。


「食事、ですか?」

「ええ。図書館の外で、ゆっくりお話ししたいと思いまして」


アステリアの胸が、小さく高鳴った。これは、どういう意味なのだろう。


「私なんかでよろしければ」

「では、来週の休日はいかがですか?」

「喜んで」


その日から、アステリアは何となくそわそわしていた。マリアにすぐに気づかれてしまった。


「ねえアステリア、何かいいことあった?」

「え? そんなことありません」

「嘘。顔に書いてあるわよ。ケラー先生と何かあったんでしょう?」

「ケラー、先生?」


アステリアは思わず聞き返した。


「あら、知らなかったの? テオドール・ケラー先生よ。王立大学の法学教授で、今は宮廷の法律顧問も務めている、すごい人なのよ」

「法学教授......」


アステリアは驚きを隠せなかった。テオドールは確かに法学者だと言っていたが、まさかそれほどの地位の人だとは。


「でも、あの方はいつも質素な服装で......」

「ケラー先生は権威を嫌うタイプなの。実家も裕福な商人の家なんだけど、貴族趣味は好きじゃないって」


マリアの説明に、アステリアはテオドールという人物への理解が深まった気がした。


約束の休日。アステリアは少し緊張しながら、待ち合わせの場所に向かった。


「お待たせしました」

「いえ、私も今来たところです」


テオドールは相変わらずの質素な服装だったが、どこか新鮮に見えた。


二人が訪れたのは、王都でも評判の小さな食堂だった。貴族的な豪華さはないが、料理の味は一流だという。


「ここの魚料理が絶品なのです」

「素敵なお店ですね」


落ち着いた雰囲気の中、二人は様々な話をした。テオドールの研究のこと、アステリアの図書館での仕事のこと。話は尽きることがなかった。


「実は、あなたが元婚約者のことを話してくれた時、安心したのです」


テオドールが突然言った。


「安心?」

「ええ。あなたが過去に囚われていないことが分かって」


アステリアは彼の真剣な眼差しを受け止めた。


「ヴェルナー嬢......いえ、アステリア」


テオドールは初めて、彼女の名を呼んだ。


「私はあなたのことを、一人の女性として意識しています。図書館で出会ってから、ずっと」


アステリアの心臓が激しく鳴った。


「でも、私は貴族で、あなたは平民です。身分の違いは......」

「私にとって、身分など関係ありません」


テオドールはきっぱりと言った。


「重要なのは、その人がどう生きているか。あなたは自分の意志で人生を選び、懸命に働いている。そんなあなたを、私は尊敬しています」


アステリアの目に、涙が滲んだ。


「テオドール様......」

「もし、あなたさえよければ、これから私と時間を過ごしていただけませんか」


それは、婚約の申し込みではない。だが、明確な好意の表明だった。


アステリアは静かに頷いた。


「私こそ、そう願っています」


二人の関係は、その日から少しずつ深まっていった。


秋が深まり、冬の訪れを感じる頃。アステリアの元に、予期せぬ知らせが届いた。


「ゲルハルト辺境伯と公爵令嬢の婚約が破談になったそうよ」


マリアが、社交界の噂を教えてくれた。


「破談?」

「ええ。公爵令嬢の浪費癖が原因だとか。婚約してからの数ヶ月で、とんでもない額を使ったらしいわ」


アステリアは複雑な思いで、その話を聞いた。フリードリヒのことを憎んではいない。だが、因果応報という言葉が頭をよぎる。


「それで、辺境伯は今、新しい婚約者を探しているそうよ。でも、評判が悪くて難航しているみたい」

「そう、ですか」


アステリアにとって、もはや遠い世界の話だった。


その夜、テオドールと食事をした時、その話題になった。


「噂は聞きました。お気持ちは複雑でしょうね」

「いいえ、思ったより何も感じません」


アステリアは正直に答えた。


「あの頃の私は、まだ自分の人生を生きていなかった。誰かに決められた道を、ただ歩いていただけ」

「今は違う?」

「ええ。今は、自分で選んだ道を歩いています。あなたと出会えたことも含めて」


テオドールは優しく微笑んだ。


「私も、あなたと出会えて幸せです」


その言葉が、何よりも温かかった。


冬が訪れ、雪が王都を白く染める頃。アステリアに新たな転機が訪れた。


「ヴェルナー嬢、少しお話があります」


館長のエドヴィンに呼ばれた。


「実は、新しい古文書の整理プロジェクトが始まるのです。王家の秘蔵していた古文書を、図書館で管理することになりました」

「それは大事業ですね」

「ええ。そして、そのプロジェクトの責任者として、あなたを推薦したいと思っています」


アステリアは驚きで言葉を失った。


「私が、ですか? でも、まだ見習いの身で......」

「見習いという肩書きは、もう外しましょう。あなたはこの半年で、十分に実力を示しました」


エドヴィンの言葉に、アステリアの目に涙が浮かんだ。


「ありがとうございます」


正式な司書として、そして重要プロジェクトの責任者として。アステリアの新しい挑戦が始まった。


プロジェクトは困難を極めた。何百年も前の古文書は、扱いに細心の注意が必要だ。だが、アステリアは持ち前の几帳面さと知識で、着実に仕事を進めていった。


テオドールも、古文書の解読で協力してくれた。二人で夜遅くまで図書館に残り、古い文字と格闘する日々。


「この文字は、古代帝国の公用語ですね」

「ええ、恐らく三百年前の外交文書でしょう」


専門的な会話を交わしながら、二人の絆は深まっていった。


ある雪の夜、二人は図書館の最上階から、王都の夜景を眺めていた。


「アステリア」


テオドールが静かに呼んだ。


「はい」

「あなたと出会ってから、私の人生は変わりました」


彼は彼女の手を取った。


「もし、私でよければ......あなたの人生を、共に歩ませてください」


それは、婚約の申し込みだった。


アステリアの目から、涙がこぼれ落ちた。


「はい。喜んで」


二人は静かに抱き合った。窓の外では、雪が静かに降り続けている。


春が訪れた頃、アステリアとテオドールの婚約が正式に発表された。


伯爵家の三女と、王立大学教授の婚約。社交界は少しざわついたが、アステリア本人はもう、そんなことは気にならなかった。


「お嬢様、お幸せそうで」


久しぶりに実家を訪れたアステリアに、侍女のマルタが涙ぐんだ。


「ありがとう、マルタ。あなたがずっと応援してくれたおかげよ」


父も、最終的には二人の婚約を認めてくれた。


「テオドール殿は、立派な学者だ。娘を任せられる」


母は、娘を抱きしめた。


「本当に、これでよかったのね」

「ええ、お母様。私、幸せです」


そして、ある日。図書館にフリードリヒ・フォン・ゲルハルトが現れた。


「ヴェルナー嬢......いや、失礼。司書殿」


かつての婚約者は、やつれた様子だった。


「ゲルハルト様。何のご用でしょうか」

「話がある。少しだけ、時間をいただけないだろうか」


アステリアは、彼を中庭に案内した。


「おめでとう。婚約の話、聞いた」


フリードリヒは苦笑した。


「君は、正しかったのだな」

「正しい、とは?」

「自分の道を選ぶこと。私は......愚かだった」


彼は遠くを見つめた。


「公爵家との縁談に目が眩んで、君のことを軽んじた。その結果が、あのざまだ」


アステリアは静かに聞いていた。


「君に謝りたくて、ここに来た。本当に、申し訳なかった」


フリードリヒは深く頭を下げた。アステリアは、穏やかに微笑んだ。


「顔を上げてください。私は、あなたを恨んではいません」

「......ヴェルナー嬢」

「あの婚約破棄があったからこそ、今の私があります。むしろ、感謝しているくらいです」


その言葉に、フリードリヒは救われたような表情を見せた。


「君は、本当に強い人だ。私が手放した宝物が、どれほど貴重だったか、今になって分かった」

「ゲルハルト様も、きっといつか、本当に大切なものに出会えます」

「......ありがとう」


二人は、静かに別れを告げた。過去の婚約者としてではなく、互いの幸せを願う、かつての知人として。


季節は巡り、初夏が訪れた。


アステリアとテオドールの結婚式は、小さな教会で、親しい人々だけを招いて執り行われた。豪華な社交界の催しではなく、温かな雰囲気の式だった。


「誓いますか、アステリア・フォン・ヴェルナー」


司祭の問いに、アステリアは明確に答えた。


「誓います」

「誓いますか、テオドール・ケラー」

「誓います」


二人は口づけを交わした。集まった人々から、温かな拍手が送られる。


式の後、マリアがアステリアに囁いた。


「見て、あれ」


視線の先には、遠くから式を見守る一人の男性がいた。フリードリヒ・フォン・ゲルハルトだった。


彼は静かに頭を下げると、去っていった。祝福の意味を込めて。


「過去は、もう終わったのね」


アステリアは、テオドールの手を握った。


「ええ、これからは、私たちの未来です」


二人は、新しい人生へと歩み始めた。


数年後。


アステリア・ケラーは、王立図書館の副館長として、重要なプロジェクトを次々と成功させていた。夫のテオドールは宮廷法律顧問として活躍し、二人は互いの仕事を尊重し合う、理想的な夫婦となっていた。


一方、フリードリヒは辺境での防衛任務に専念し、徐々に信頼を取り戻しつつあった。浪費家の元婚約者の一件から学び、今は堅実な人生を歩んでいる。


「ママ、この本読んで」


小さな娘が、アステリアに絵本を差し出した。


「いいわよ。さあ、おいで」


アステリアは娘を膝に乗せ、優しく本を読み始めた。窓の外では、図書館の庭に花が咲き誇っている。


かつて、婚約を破棄されて絶望するはずだった女性は、今、誰よりも幸せな日々を送っていた。


自分の人生を、自分で選んだから。


そして、本当に大切な人と出会えたから。


「ねえ、アステリア」


仕事から帰ってきたテオドールが、優しく妻を抱きしめた。


「今日も良い一日だった?」

「ええ、とても」


アステリアは微笑んだ。


「あなたと出会えて、本当によかった」

「私もです」


二人は静かに見つめ合った。



最後まで読んでいただきありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
嫌な人が居ない (元婚約者が選んだ浪費家公爵令嬢除く) 素敵なお話でした 読後なぜか。・゜・(ノД`)・゜・。← こんなんでした(自分でも分からず)笑 元婚約者が意外に良い人だったからかなぁ? みんな…
確かに乗り気でない婚約を向こうから破棄してくれたのだから感謝しかないですよね。婚約=幸せと言った王道に反した設定は面白かったです。
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