婚約破棄? むしろ好都合です~図書館司書になった私の第二の人生~
アステリア・フォン・ヴェルナーは、今朝ほど届いた一通の手紙を、何度目かになる読み返しをしていた。羊皮紙に記された文字は丁寧だが、そこに込められた意味は容赦なく冷たい。
辺境伯爵家ゲルハルト家からの、婚約解消の通知。理由は「家格の相違による将来的な不和の懸念」という、実に当たり障りのない言葉で綴られていた。
「お嬢様」
侍女のマルタが心配そうに声をかけてくる。アステリアは静かに手紙を畳んだ。
「大丈夫よ、マルタ。むしろ、ホッとしているくらいだわ」
「え......?」
マルタの驚いた顔を見て、アステリアは小さく微笑んだ。十七歳の少女にしては落ち着きすぎているかもしれない。だが、これが彼女の本心だった。
ヴェルナー伯爵家は、王都でも名の知れた名門である。代々、学者や官僚を多く輩出してきた家系で、武勲よりも知性を重んじる気風があった。アステリアは三女として生まれ、上には優秀な姉が二人いた。
長女のカタリーナは社交界の花形として名を馳せ、すでに公爵家に嫁いでいる。次女のエレオノーラは宮廷楽団の首席演奏者として活躍中だ。
そして三女のアステリア。彼女が愛したのは、社交でも音楽でもなく、古い書物に囲まれた静かな時間だった。
父である伯爵は、そんな娘を不憫に思ったのだろう。アステリアが十五歳の時、辺境伯爵家ゲルハルト家との縁談を取りまとめた。格上との婚約は、三女にとって破格の条件だった。
だが、アステリアにとってそれは、牢獄への入り口にしか見えなかった。
ゲルハルト家は武勲で成り上がった新興貴族だ。辺境の守りという重責を担い、実利と力を重視する。そこに、本ばかり読んでいる内気な令嬢が嫁いだところで、幸せになれるはずがない。
アステリアはそれを理解していた。だからこそ、この二年間、婚約者であるフリードリヒ・フォン・ゲルハルトと会うたびに、どこか気まずい思いをしていた。
「お父様には、もうお話しになりましたか?」
「いいえ、まだよ。でも、きっと激怒なさるでしょうね」
アステリアの予想は的中した。
書斎に呼ばれたアステリアは、顔を真っ赤にした父と向き合っていた。
「何たる無礼! ゲルハルト家め、我が家を侮辱するにもほどがある!」
「お父様、落ち着いてください」
「落ち着けるものか! お前はヴェルナー家の娘だぞ。格上との縁談を一方的に破棄されて、黙っていられるか!」
父の怒りはもっともだった。貴族社会において、婚約破棄は重大な事件だ。特に相手方からの一方的な破棄は、破棄された側への侮辱と見なされる。
「抗議文を送る。いや、直接乗り込んで……」
「お父様」
アステリアは静かに、しかし明確な声で言った。
「私は、この婚約破棄を受け入れます」
「何を言っている、アステリア!」
「そして、この機会に、一つお願いがあるのです」
父は娘の真剣な眼差しに、一瞬言葉を失った。
「私に、王立図書館の司書見習いとして働くことをお許しください」
書斎に、重い沈黙が降りた。
王立図書館。それは王国最大の知の宝庫であり、何万冊もの蔵書を管理する機関だ。そこで働く司書たちは、単なる本の管理者ではなく、学者としても一流の人材が集まっている。
「馬鹿な......! 貴族の令嬢が、働くだと?」
「姉様方も、それぞれの道を歩んでおられます。カタリーナ姉様は公爵夫人として、エレオノーラ姉様は演奏家として」
「それとこれとは話が違う!」
父の声が書斎に響く。
「お前はまだ十七だ。次の縁談を探せば……」
「お父様、私は結婚したくありません」
アステリアの言葉に、父は目を見開いた。
「少なくとも今は。私は学びたいのです。もっと多くの書物に触れ、知識を深めたい。王立図書館には、ここにはない貴重な文献が無数にあります」
「アステリア......」
「婚約破棄は、むしろ好機でした。これで誰にも遠慮せず、自分の道を選べます」
娘の瞳には、確固たる意志が宿っていた。父は、初めて娘のこんな表情を見た気がした。
「お前は、本気なのだな」
「はい」
長い沈黙の後、父は深いため息をついた。
「分かった。だが、条件がある」
「はい」
「三年だ。三年間、図書館で働くことを許そう。だが、その後はこの家に戻り、きちんと縁談を考えること。それでいいな?」
アステリアの顔に、初めて明るい笑顔が浮かんだ。
「ありがとうございます、お父様!」
こうして、アステリア・フォン・ヴェルナーの新しい人生が始まった。
王立図書館は、王宮の東側に建つ壮麗な建造物だった。三階建ての石造りの建物は、荘厳でありながら、どこか静謐な雰囲気を漂わせている。
アステリアが初めてその門をくぐったのは、春の陽気が心地よい日だった。
「新しい司書見習いの方ですね」
受付で待っていたのは、四十代ほどの痩せた男性だった。眼鏡の奥の目は鋭く、しかし好奇心に満ちている。
「館長のエドヴィン・シュタインと申します。ヴェルナー伯爵からお話は伺っております」
「アステリア・フォン・ヴェルナーです。よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げるアステリアに、エドヴィンは少し驚いたようだった。
「ふむ。貴族の令嬢が司書見習いとは珍しい。だが、この図書館では身分は関係ない。重要なのは、書物への愛と、学ぶ意欲だけだ」
「承知しております」
「では、館内をご案内しましょう」
広大な図書館の中を歩きながら、エドヴィンは説明を続けた。一階は一般公開されている閲覧室と貸出カウンター。二階は専門書や古文書を扱う研究室。三階は特に貴重な文献を保管する書庫。
「まずは一階の整理と貸出業務から始めてもらいます。慣れてきたら、書籍の分類や目録作成も任せましょう」
「はい」
「ところで」
エドヴィンが立ち止まり、アステリアを見た。
「なぜ、司書になろうと思ったのですか?」
アステリアは少し考えてから、静かに答えた。
「書物には、時を超えた知恵が詰まっています。人の一生では経験できないことも、本を通じて学べる。そんな宝物を守り、人々に届ける仕事に、意義を感じたのです」
エドヴィンの表情が、わずかに和らいだ。
「良い答えだ。期待していますよ、ヴェルナー嬢」
こうして、アステリアの図書館での日々が始まった。
最初の数週間は、覚えることばかりだった。蔵書の分類方法、貸出の手続き、書籍の扱い方。細かな規則も多く、慣れない作業に戸惑うこともあった。
だが、アステリアは確実に成長していった。もともと読書家だった彼女にとって、書物の内容を理解することは難しくない。むしろ、様々な分野の本に触れられることが、何よりの喜びだった。
「ヴェルナー嬢、この本の配架をお願いできますか?」
同僚の司書、マリアが本を手渡してくる。アステリアより五歳ほど年上の、快活な女性だ。
「もちろんです」
「助かるわ。あなた、本当に仕事が早いわね」
「いえ、まだまだ未熟です」
「謙遜しないで。三ヶ月でここまでできる見習いは珍しいのよ」
マリアの言葉に、アステリアは少し照れたように微笑んだ。
図書館での生活は、想像以上に充実していた。朝早くから夕方まで、書物に囲まれて働く。休憩時間には、興味のある本を読むこともできる。
そして何より、ここには婚約や家格といった重圧がなかった。
伯爵家の三女として生きていた頃は、常に周囲の期待を感じていた。姉たちのように優雅に振る舞い、良い縁談を得て、家の名誉を守る。それが彼女に課せられた役割だった。
だが、今は違う。ここでは、アステリア・フォン・ヴェルナーという個人として扱われる。能力と努力だけが評価される世界。
「自由って、こういうことなんだわ」
ある日、閉館後の静かな図書館で、アステリアは独りごちた。窓から差し込む夕日が、整然と並んだ書棚を照らしている。
その時だった。
「失礼、まだ開いていますか?」
扉が開き、一人の男性が入ってきた。アステリアは振り返る。
「申し訳ございません。本日の開館時間は終了しております」
「そうか......残念だ」
男性は三十代前半ほどだろうか。質素だが品の良い服装。手には羊皮紙の束を抱えている。
「明日は朝の八時から開館しております」
「分かりました。では、明日また来ます」
男性は礼儀正しく頭を下げて去っていった。アステリアは、その後ろ姿を見送りながら、どこか見覚えがあるような気がした。
翌日、その男性は約束通りやってきた。
「昨日はどうも。テオドール・ケラーと申します」
「司書見習いのアステリアです。お探しの資料は?」
「古代帝国の行政制度に関する文献です。できれば一次資料が望ましいのですが」
専門的な要求に、アステリアは少し驚いた。
「それでしたら、二階の研究室にございます。ご案内いたします」
アステリアが案内した先で、テオドールは目を輝かせた。
「これは......『帝国行政法大全』! こんな貴重な本が」
「お詳しいのですね」
「仕事柄、古い法制度を調べることが多いのです」
「法学者の方ですか?」
「ええ、まあ」
テオドールは曖昧に答えた。その後、彼は熱心に資料を読み始めた。
これが、テオドール・ケラーとの出会いだった。
それから、テオドールは頻繁に図書館を訪れるようになった。いつも様々な文献を求め、熱心に研究している。
不思議なことに、アステリアは彼と話すのが楽しかった。テオドールは博識で、しかし決して知識をひけらかさない。むしろ、アステリアの意見にも真剣に耳を傾けてくれる。
「ヴェルナー嬢は、なぜ司書になったのですか?」
ある日、テオドールが尋ねた。
「書物が好きだからです。それと......」
アステリアは少し躊躇してから続けた。
「自分の人生を、自分で選びたかったから」
「自分で選ぶ、か」
テオドールは静かに繰り返した。
「素晴らしいことだと思います。多くの人は、与えられた役割を生きるしかない。自分で選べるというのは、実は大変な贅沢なのです」
「ケラー様は、ご自身の道を選ばれたのですか?」
「私は......」
テオドールは少し考えてから、微笑んだ。
「半分くらいは、選べたと思います」
その曖昧な答えが、かえってアステリアの好奇心をくすぐった。
季節は夏から秋へと移り変わっていった。アステリアの仕事ぶりは、館長のエドヴィンからも高く評価されるようになっていた。
「ヴェルナー嬢、そろそろ目録作成の仕事も任せたいと思っています」
「本当ですか!」
目録作成は、司書の中でも経験を積んだ者だけが任される重要な仕事だ。各書籍の内容を理解し、適切に分類し、後世のために記録を残す。
「あなたの几帳面な性格と、幅広い知識なら、きっとうまくやれるでしょう」
「精一杯努めます」
その日の午後、アステリアは新しい目録作成の仕事に取り組んでいた。古い神学書を手に取り、内容を確認しながら、分類番号を記入していく。
「集中していますね」
声に顔を上げると、テオドールが立っていた。
「ケラー様。今日もいらしていたのですね」
「ええ。でも、邪魔をしてしまいましたか?」
「いえ、ちょうど区切りがついたところです」
アステリアは書物を脇に置いた。
「目録作成の仕事を任されたのです」
「それは素晴らしい。昇進ですね」
「見習いの身で、恐縮なのですが」
「謙遜は美徳ですが、自分の成果は素直に喜んでいいと思いますよ」
テオドールの言葉に、アステリアは小さく笑った。
「ケラー様は、いつも私を励ましてくださいますね」
「励ますつもりはないのです。ただ、事実を述べているだけで」
二人は自然と、図書館の中庭に出た。秋の風が心地よい。
「そういえば」
テオドールが切り出した。
「社交界では、今、ゲルハルト辺境伯の婚約が話題になっているそうですね」
アステリアの表情が、一瞬固まった。
「ご存知なのですか」
「風の噂で。ヴェルナー伯爵家の三女との婚約を破棄し、公爵家の令嬢と婚約したとか」
「......ええ」
アステリアは静かに答えた。
「その三女というのが、私です」
テオドールは驚いた様子で彼女を見た。
「そうでしたか。それは......失礼なことを」
「いいえ、気にしていません。むしろ、あの婚約破棄があったからこそ、今ここにいられるのですから」
アステリアの表情は穏やかだった。
「後悔はないのですか?」
「全く。辺境伯爵夫人として生きるより、ここで司書として働く方が、私には合っています」
その言葉には、一片の迷いもなかった。
「あなたは、本当に強い方だ」
テオドールの言葉に、アステリアは首を傾げた。
「強い? 私が?」
「ええ。自分の幸せを、自分で定義できる人は少ない。多くの人は、世間の価値観に流されてしまう」
「ケラー様こそ、いつも深いことをおっしゃいますね」
二人は、しばらく黙って中庭の景色を眺めていた。紅葉し始めた木々が、秋の深まりを告げている。
「ヴェルナー嬢」
「はい?」
「もし差し支えなければ、今度一緒に食事でもいかがですか」
テオドールの突然の申し出に、アステリアは目を丸くした。
「食事、ですか?」
「ええ。図書館の外で、ゆっくりお話ししたいと思いまして」
アステリアの胸が、小さく高鳴った。これは、どういう意味なのだろう。
「私なんかでよろしければ」
「では、来週の休日はいかがですか?」
「喜んで」
その日から、アステリアは何となくそわそわしていた。マリアにすぐに気づかれてしまった。
「ねえアステリア、何かいいことあった?」
「え? そんなことありません」
「嘘。顔に書いてあるわよ。ケラー先生と何かあったんでしょう?」
「ケラー、先生?」
アステリアは思わず聞き返した。
「あら、知らなかったの? テオドール・ケラー先生よ。王立大学の法学教授で、今は宮廷の法律顧問も務めている、すごい人なのよ」
「法学教授......」
アステリアは驚きを隠せなかった。テオドールは確かに法学者だと言っていたが、まさかそれほどの地位の人だとは。
「でも、あの方はいつも質素な服装で......」
「ケラー先生は権威を嫌うタイプなの。実家も裕福な商人の家なんだけど、貴族趣味は好きじゃないって」
マリアの説明に、アステリアはテオドールという人物への理解が深まった気がした。
約束の休日。アステリアは少し緊張しながら、待ち合わせの場所に向かった。
「お待たせしました」
「いえ、私も今来たところです」
テオドールは相変わらずの質素な服装だったが、どこか新鮮に見えた。
二人が訪れたのは、王都でも評判の小さな食堂だった。貴族的な豪華さはないが、料理の味は一流だという。
「ここの魚料理が絶品なのです」
「素敵なお店ですね」
落ち着いた雰囲気の中、二人は様々な話をした。テオドールの研究のこと、アステリアの図書館での仕事のこと。話は尽きることがなかった。
「実は、あなたが元婚約者のことを話してくれた時、安心したのです」
テオドールが突然言った。
「安心?」
「ええ。あなたが過去に囚われていないことが分かって」
アステリアは彼の真剣な眼差しを受け止めた。
「ヴェルナー嬢......いえ、アステリア」
テオドールは初めて、彼女の名を呼んだ。
「私はあなたのことを、一人の女性として意識しています。図書館で出会ってから、ずっと」
アステリアの心臓が激しく鳴った。
「でも、私は貴族で、あなたは平民です。身分の違いは......」
「私にとって、身分など関係ありません」
テオドールはきっぱりと言った。
「重要なのは、その人がどう生きているか。あなたは自分の意志で人生を選び、懸命に働いている。そんなあなたを、私は尊敬しています」
アステリアの目に、涙が滲んだ。
「テオドール様......」
「もし、あなたさえよければ、これから私と時間を過ごしていただけませんか」
それは、婚約の申し込みではない。だが、明確な好意の表明だった。
アステリアは静かに頷いた。
「私こそ、そう願っています」
二人の関係は、その日から少しずつ深まっていった。
秋が深まり、冬の訪れを感じる頃。アステリアの元に、予期せぬ知らせが届いた。
「ゲルハルト辺境伯と公爵令嬢の婚約が破談になったそうよ」
マリアが、社交界の噂を教えてくれた。
「破談?」
「ええ。公爵令嬢の浪費癖が原因だとか。婚約してからの数ヶ月で、とんでもない額を使ったらしいわ」
アステリアは複雑な思いで、その話を聞いた。フリードリヒのことを憎んではいない。だが、因果応報という言葉が頭をよぎる。
「それで、辺境伯は今、新しい婚約者を探しているそうよ。でも、評判が悪くて難航しているみたい」
「そう、ですか」
アステリアにとって、もはや遠い世界の話だった。
その夜、テオドールと食事をした時、その話題になった。
「噂は聞きました。お気持ちは複雑でしょうね」
「いいえ、思ったより何も感じません」
アステリアは正直に答えた。
「あの頃の私は、まだ自分の人生を生きていなかった。誰かに決められた道を、ただ歩いていただけ」
「今は違う?」
「ええ。今は、自分で選んだ道を歩いています。あなたと出会えたことも含めて」
テオドールは優しく微笑んだ。
「私も、あなたと出会えて幸せです」
その言葉が、何よりも温かかった。
冬が訪れ、雪が王都を白く染める頃。アステリアに新たな転機が訪れた。
「ヴェルナー嬢、少しお話があります」
館長のエドヴィンに呼ばれた。
「実は、新しい古文書の整理プロジェクトが始まるのです。王家の秘蔵していた古文書を、図書館で管理することになりました」
「それは大事業ですね」
「ええ。そして、そのプロジェクトの責任者として、あなたを推薦したいと思っています」
アステリアは驚きで言葉を失った。
「私が、ですか? でも、まだ見習いの身で......」
「見習いという肩書きは、もう外しましょう。あなたはこの半年で、十分に実力を示しました」
エドヴィンの言葉に、アステリアの目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます」
正式な司書として、そして重要プロジェクトの責任者として。アステリアの新しい挑戦が始まった。
プロジェクトは困難を極めた。何百年も前の古文書は、扱いに細心の注意が必要だ。だが、アステリアは持ち前の几帳面さと知識で、着実に仕事を進めていった。
テオドールも、古文書の解読で協力してくれた。二人で夜遅くまで図書館に残り、古い文字と格闘する日々。
「この文字は、古代帝国の公用語ですね」
「ええ、恐らく三百年前の外交文書でしょう」
専門的な会話を交わしながら、二人の絆は深まっていった。
ある雪の夜、二人は図書館の最上階から、王都の夜景を眺めていた。
「アステリア」
テオドールが静かに呼んだ。
「はい」
「あなたと出会ってから、私の人生は変わりました」
彼は彼女の手を取った。
「もし、私でよければ......あなたの人生を、共に歩ませてください」
それは、婚約の申し込みだった。
アステリアの目から、涙がこぼれ落ちた。
「はい。喜んで」
二人は静かに抱き合った。窓の外では、雪が静かに降り続けている。
春が訪れた頃、アステリアとテオドールの婚約が正式に発表された。
伯爵家の三女と、王立大学教授の婚約。社交界は少しざわついたが、アステリア本人はもう、そんなことは気にならなかった。
「お嬢様、お幸せそうで」
久しぶりに実家を訪れたアステリアに、侍女のマルタが涙ぐんだ。
「ありがとう、マルタ。あなたがずっと応援してくれたおかげよ」
父も、最終的には二人の婚約を認めてくれた。
「テオドール殿は、立派な学者だ。娘を任せられる」
母は、娘を抱きしめた。
「本当に、これでよかったのね」
「ええ、お母様。私、幸せです」
そして、ある日。図書館にフリードリヒ・フォン・ゲルハルトが現れた。
「ヴェルナー嬢......いや、失礼。司書殿」
かつての婚約者は、やつれた様子だった。
「ゲルハルト様。何のご用でしょうか」
「話がある。少しだけ、時間をいただけないだろうか」
アステリアは、彼を中庭に案内した。
「おめでとう。婚約の話、聞いた」
フリードリヒは苦笑した。
「君は、正しかったのだな」
「正しい、とは?」
「自分の道を選ぶこと。私は......愚かだった」
彼は遠くを見つめた。
「公爵家との縁談に目が眩んで、君のことを軽んじた。その結果が、あのざまだ」
アステリアは静かに聞いていた。
「君に謝りたくて、ここに来た。本当に、申し訳なかった」
フリードリヒは深く頭を下げた。アステリアは、穏やかに微笑んだ。
「顔を上げてください。私は、あなたを恨んではいません」
「......ヴェルナー嬢」
「あの婚約破棄があったからこそ、今の私があります。むしろ、感謝しているくらいです」
その言葉に、フリードリヒは救われたような表情を見せた。
「君は、本当に強い人だ。私が手放した宝物が、どれほど貴重だったか、今になって分かった」
「ゲルハルト様も、きっといつか、本当に大切なものに出会えます」
「......ありがとう」
二人は、静かに別れを告げた。過去の婚約者としてではなく、互いの幸せを願う、かつての知人として。
季節は巡り、初夏が訪れた。
アステリアとテオドールの結婚式は、小さな教会で、親しい人々だけを招いて執り行われた。豪華な社交界の催しではなく、温かな雰囲気の式だった。
「誓いますか、アステリア・フォン・ヴェルナー」
司祭の問いに、アステリアは明確に答えた。
「誓います」
「誓いますか、テオドール・ケラー」
「誓います」
二人は口づけを交わした。集まった人々から、温かな拍手が送られる。
式の後、マリアがアステリアに囁いた。
「見て、あれ」
視線の先には、遠くから式を見守る一人の男性がいた。フリードリヒ・フォン・ゲルハルトだった。
彼は静かに頭を下げると、去っていった。祝福の意味を込めて。
「過去は、もう終わったのね」
アステリアは、テオドールの手を握った。
「ええ、これからは、私たちの未来です」
二人は、新しい人生へと歩み始めた。
数年後。
アステリア・ケラーは、王立図書館の副館長として、重要なプロジェクトを次々と成功させていた。夫のテオドールは宮廷法律顧問として活躍し、二人は互いの仕事を尊重し合う、理想的な夫婦となっていた。
一方、フリードリヒは辺境での防衛任務に専念し、徐々に信頼を取り戻しつつあった。浪費家の元婚約者の一件から学び、今は堅実な人生を歩んでいる。
「ママ、この本読んで」
小さな娘が、アステリアに絵本を差し出した。
「いいわよ。さあ、おいで」
アステリアは娘を膝に乗せ、優しく本を読み始めた。窓の外では、図書館の庭に花が咲き誇っている。
かつて、婚約を破棄されて絶望するはずだった女性は、今、誰よりも幸せな日々を送っていた。
自分の人生を、自分で選んだから。
そして、本当に大切な人と出会えたから。
「ねえ、アステリア」
仕事から帰ってきたテオドールが、優しく妻を抱きしめた。
「今日も良い一日だった?」
「ええ、とても」
アステリアは微笑んだ。
「あなたと出会えて、本当によかった」
「私もです」
二人は静かに見つめ合った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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