96 涙の意味
最後の旅への出発を、明日に控えた夜。
ルディアの街は、静けさとかつてない緊張に包まれていた。誰もが、これから始まる歴史的な瞬間に、それぞれの覚悟を固めている。
というのに……俺ときたら。
「……はぁ」
本庁の、俺の私室。そのバルコニーで、俺は一人、眼下に広がる街の灯りを見下ろしていた。
綺麗だ、と思った。
俺が、仲間たちが、文字通り命を懸けて創り上げた、宝石箱のような光景。
なのに。
心が、動かない。
嬉しいとか、愛おしいとか、そういう温かいものが、胸の奥底から湧き上がってこない。
ただ、頭の中の「領主カイ=アークフェルド」が、冷静に分析を始めるだけ。
(──この光景を、維持しなければならない。そのための最適な手段は何か。個人の感情は、思考のノイズにしかならない)
違う。
違うだろ。
俺は、こんな冷たい機械になるために、この世界に来たんじゃないだろ。
(怖いのか?)
ああ、怖いさ。
(何が?)
わからない。わからないから、怖いんだ。
(お前は、一人だ)
知ってるよ。俺が、一番……。
心の奥で、もう一人の自分が囁く。
俺は、その声から逃れるように強く目を閉じた。
その時だった。
瞼の裏に、なぜか、懐かしい光景がフラッシュバックした。
──冷たい、蛍光灯の光。深夜のオフィス。
仕事で大きなミスをして、上司に罵倒され、一人で残業していた、前世の夜。
情けなくて、悔しくて、でも誰にも弱音を吐けなくて。
久しぶりに実家に電話をかけた。声を聞きたかった。ただ、それだけだったのに。
「……大丈夫よ、遼」
受話器の向こうから聞こえてきた、母さんの、呆れるほど優しい声。
「お母さんだって、毎日失敗ばっかり。人間なんて、そんなものよ。でもね、大事なのは、転ばないことじゃないの。転んだ後に、ちゃんと『痛い』って泣いて、また立ち上がることなんだから」
──そうだ。母さんは、俺に「完璧であれ」なんて、一度も言わなかった。
「どれだけ失敗したって、私は幸せだよ。あなたのお母さんに、なれたんだからね」
光景が変わる。
──夕暮れの、公園のベンチ。
大学生の頃、勇気を振り絞って告白して、見事に玉砕した日。
「そっか、ごめん」とだけ言って立ち去ろうとする俺を、彼女は追いかけてきた。そして、少し困ったように、でも真っ直ぐな目で、俺に言ったんだ。
「佐久間君のそういうとこ、ずるいと思う」
「いつも正しいことばっかり言って、全然弱いところ見せてくれないじゃん」
「……こっちだって、たまには頼られたいんだよ。完璧なヒーローより、一緒に悩んでくれるただの男の子のほうが、ずっとカッコいいのに」
そうだ。
俺は、あの頃から、何も変わっちゃいなかった。
いつも、いつも、誰かの期待に応えようとして、完璧な自分を演じようとして。
弱い自分を見せたら嫌われるんじゃないかって、拒絶されるんじゃないかって怯えて。
結局、一人で全部抱え込んで、勝手に潰れて。
だから俺は死んだんじゃないのか。やり直すために、この世界に来たんじゃないのか。
前世と、何も、変わってないじゃないか。
「……う……」
堪えていた何かが、決壊した。
俺の頬を、熱いものが伝っていく。
「……う……ああ……」
ダメだ。
領主が、泣いていいわけがない。
英雄が、弱さを見せていいわけがない。
みんなの期待を、裏切るわけには……。
「……あああ……あああああああっ……!」
でも、もう、止められなかった。
俺はその場に崩れ落ち、子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
ごめん、母さん。親不孝な息子で。ろくに親孝行もできず、先に逝ってしまうなんて、俺は最低な息子だ。
ごめん、俺の初恋の人。俺は、気づいていなかったんだ。ずっと。弱い部分があるからこそ、人と人は強い絆で結ばれるってことに。
ごめん、前世の俺。ずっと無理をして、挙句の果てに命まで落とすなんて。もっと他人に頼っていいって、もっと弱みを見せていいって、早く気づけていればな……。一度きりの人生を無駄にして、ごめん。
怖かった。
ずっと、怖かったんだ。
仲間を失うのが。
自分の力が、自分じゃなくなっていくのが。
みんなの期待に応えられなくなるのが。
一人に、なるのが。
怖くてたまらなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
ふと上を見上げると、そこにはフィオナが、泣きそうな、でも果てしなく優しい顔で立っていた。
フィオナが、俺の肩にそっと毛布をかける。
俺は、見られたという羞恥で、顔を覆った。
「……見るな」
「……いやだ」
フィオナは、俺の隣に、静かに膝をついた。
「……ずっと、探していた」
「……え?」
「貴殿が、この世界に来てからずっと。私が知っているはずの、カイ=アークフェルドでも、佐久間遼でもない、誰かになってしまいそうで……。だが、今、ようやく見つけた。……弱いところを見せてくれて、ありがとう。私の信じた通り、貴殿は、一人で全てを背負えるほど、強くはなかったのだな」
「やめろ……領主は、強くなければ……」
フィオナは、俺の口をそっと塞いだ。もうこれ以上、弱音を吐かなくていいと、伝えるかのように。
「私は最初、貴殿を『完璧な人』だと思い、好きになった。優しく、仲間想いで、頑張り屋で。……ただ、共に日を過ごしていく中で、貴殿が『完璧ではない人』だと知り、より一層好きになった。怒るし、不器用だし、一人で抱え込む。……『弱み』だと思い、隠したがっているそんなあなたこそ、私にとって、愛おしくてたまらない、カイ=アークフェルド……いや、佐久間遼なのだ」
その、あまりに温かい言葉。
俺は、何も言えなかった。
ただ彼女の肩に顔をうずめて、泣き続けた。
フィオナは何も言わずに、ただ、俺の背中を、優しく撫で続けてくれた。
◇◇◇
夜が、明けた。
東の空が、白み始めている。
俺はほとんど一睡もしていなかったが、不思議と心は、晴れやかだった。
そうだ。
俺は、弱くていい。
完璧じゃなくていいんだ。
俺には、この弱さごと支えてくれる仲間がいて、この弱さごと、愛してくれる人がいる。
「……見てろよ、母さん。見てろよ、初恋の人」
俺は、朝日が昇り始めた空に向かって、不敵に、そして心の底から笑った。
「あんたの息子に生まれて、よかったよ。母さん」
その笑顔は、もう「領主」の仮面ではなかった。
全ての弱さを受け入れた、一人の男の、本物の笑顔だった。
今までで一番、書いていて涙が出ました。ずっと書きたいと思っていたエピソードだったので、思っていた通りに書くことが出来てとても満足です。