84 迷宮攻略
黒曜石の壁が、背後で轟音と共に閉ざされた。
完全な暗闇と静寂。まるで、巨大な石の棺に閉じ込められたかのようだ。退路は、断たれた。
「──闇を祓います」
レイナが静かに囁くと、彼女の掌から柔らかな聖なる光が溢れ出し、周囲を照らし出した。
そこに広がっていたのは俺たちの常識を嘲笑うかのような、異様な光景だった。
「おいおい、なんだこりゃ……」
ラズが絶句する。塔の内部は、物理法則完全に無視した巨大な三次元迷宮と化していた。床だと思った場所は壁になり、上へと続くはずの階段は逆さまに天井からぶら下がっている。通路は中に浮き、ありえない角度で交差し、そこまでも続いていた。
「方向感覚が狂わされる……。ここは、一種の精神攻撃を兼ねた場所か」
フィオナが剣を構え、警戒を強める。
俺も、この空間が放つ異様な圧迫感に思わず眉をひそめた。
「カイ様、お気をつけください。この空間は、神代の魔術と、還し手の歪んだ術式が混ざり合った極めて不安定なものです」
レイナの言葉通り、ここはただの迷路ではない。俺たちの精神を削り、内側から崩壊させるための悪意に満ちた罠だ。
「……行くしかない」
仲間たちを鼓舞するように、俺は一歩前に出た。
この歪んだ空間を進み始めた、その時だった。俺たちの足元から影が不自然に伸び、揺らめき始める。やがてその影は実体化し、俺たちと全く同じ姿、同じ装備をした「影の番人」となって、その行く手を塞いだ。
「自分の影、か。一番厄介な相手だぜ」
ラズがナイフを構え、舌打ちする。
影の番人たちは無言のまま、本体である俺たちと全く同じ構えを取った。
この狭く、足場の悪い空間で、自分自身との死闘を強いられる。これ以上ない、最悪の状況だ。
「……面白い」
その絶望的な沈黙を破ったのは、意外にもシェルカだった。
彼女は背負っていた弓を手に取ると、不敵な笑みを浮かべた。
「アタシの相手はアタシか。いいね、燃えてきた。どっちが本物の狩人か、白黒つけようじゃないか」
その言葉を合図に、戦闘の火蓋が切って落とされた。
フィオナとラズも、それぞれの影と激しく打ち合い始める。鏡写しのような、一瞬の隙も許されない死闘。
俺の前にも、影の俺が立ちはだかる。その手には、禍々しい創世の権能の力が渦巻き始めていた。
創世の権能を使えるヤツが敵とは……これ以上に厄介なことはない。
しかも、こんな狭い空間でスキルの打ち合いなどできるわけがない!
「カイ様は下がっていてください!」
その声ととともに、俺の前に純白の女神が飛び出した。
レイナだった。
彼女の表情からはいつものお茶目な笑みは消え去り、運命を司る神として、凛とした威厳だけがあった。
「ここは、私たちにお任せを」
「レイナ! お前が戦うのは危険すぎる!」
「大丈夫です。貴方は、この戦いの『指揮官』です。盤面全体を見渡し、我々に勝利への道を示してください。それこそが、貴方の『創造』の力のはず」
彼女の金色の瞳が、俺をまっすぐに見据える。
そうだ。俺は、いつの間にかまた一人で戦おうとしていた。
俺の役目は、拳を振るうことだけじゃない。仲間を信じ、その力を最大限に引き出すことだ。
「……わかった。頼んだぞ!」
俺は後方へ下がり、戦場全体を俯瞰する。
見ているだけで気分の悪くなる空間だが、戦場は女神と狩人による、華麗なる舞踏の舞台と化した。
「──おしゃべりはそこまでだよ!」
シェルカが獣のような俊敏さで跳躍した。
空中で身体を捻りながら、三本の矢を同時に番え、放つ。
一本は影のフィオナの剣筋を逸らし、一本は影のラズの体勢を崩し、そして最後の一本は、影のシェルカが放った矢と空中で激突し、火花を散らした。
彼女は、自分と戦うことなど端から考えていない。戦場全体を把握し、味方が最も戦いやすい状況を、その神業の如き弓術で作り出していく。
その姿は、まさしく戦場を舞う豹。トウラ戦士団のエースだったのも納得だ。
「──運命の糸よ、その動きを縛りなさい」
レイナが両手を合わせる。
彼女が指を振るうたび、目に見えない運命の糸が、影の番人たちの動きを縛って鈍らせていく。
敵の攻撃は、ことごとく「不運」によって軌道を逸れ、味方の攻撃はまるで吸い寄せられるかのように「幸運」によって敵の急所を捉える。
「今です、フィオナ様! ラズ様!」
レイナの声に応じ、フィオナとラズが動きの鈍ったそれぞれの影に渾身の一撃を叩き込む。
影たちは悲鳴を上げることなく、元のただの「影」へと還っていった。
「カイ!」
フィオナが叫ぶ。
わかっている。
俺は、女神と狩人が作り出してくれた完璧な好機を見逃さなかった。
「──光よ」
俺の言葉に呼応し、この場の全員の力を、俺という一点に集中させる。
それは、新たなスキルなんかじゃない。
ただ、仲間たちの信頼を俺が束ねただけの、純粋な光の塊。
その光が、影を包みこんで浄化していく。
「……ありがとう、みんな」
静寂が戻った迷宮で、俺は仲間たちに心から感謝した。
「しかし……本番はこっからみたいだな」
迷宮の奥。一つの扉が、まるで俺たちを次のステージへと誘うかのように、ゆっくりと重い口を開き始めた。
その扉の向こうには、無数の魔物の目がこちらを向いている。
背筋を凍らせながら、俺たちは覚悟を決めて次の階層へと続く扉をくぐった。