74 帰路
玉座は覆いがかけられ、皇帝は脇の低い椅子に座っていた。朝の光は白く、言葉を選ぶには十分すぎる明るさだった。
「……負けたのか」
沈黙の果てに、父が言った。
「敗け方を、選びました。民が死なないほうを」
ジェイルはまっすぐ答える。
「私を降ろすのか」
「座っていてください。まず真実公聴会で、父上の言葉で全てを説明してほしい。降りるかどうかは、その後──帝国が決めます」
「恥は、帝家を壊すぞ」
「隠せば、国が壊れます」
父は指先で肘掛けの彫りをなぞる。爪が一度だけ、木を鳴らした。
「ルディアと、手を結ぶ理由は?」
「復興と交易、それから『還し手』対策です。今まで我々は還し手に利用されていたが、ルディアとの戦争が終わった今、いつこの国が標的にされるかわからないため、利害は一致する。毎月の安全保障会議を設け、殴る前に話す場を必ず通す」
「王都は?」
「アルディナは痛みを知っている人です。約束を守らせるには、こちらが先に守ること」
「……カイという男を、どう見る」
「破壊者ではなく『整える側』。彼がいなくても回る仕組みを作るのが、こちらの答えです」
父はしばしジェイルを見た。やがて、懐から古い印章を取り出す。黒い紐の封蝋印。長く使われた鈍い艶がある。
「これはお前のものではない。一時だけ貸す。条約と撤兵、復興の文書に限り、私の名を押せ。──返す時、帝国を欠かずに返せ」
「必ず」
「私は公の場で謝罪する。場を整えよ。逃げぬ証になる」
「……ありがとうございます」
「礼は要らぬ。生き延びさせろ。帝国を、民を、そして──お前自身をだ」
ジェイルは頷き、印章を両手で受け取った。扉の外で、片付けの金属音がかすかに響く。朝はすでに始まっている。父子は立ち上がり、互いに会釈だけを交わした。
◇◇◇
城門の影は短いのに、空気だけがまだ冷たい。見送りに出たジェイルは、余計な飾りを捨てて立っていた。後ろの兵は少数。凱歌も旗もない──それでいい。
「約束は動かし続ける。止めたら腐るからな」
俺が言うと、彼は微笑んだ。
「昨日より今日、今日より明日……君が安っぽいと嫌う言い回しだが、今はそれしかない」
「安っぽく使わなきゃ嫌わない」
だいぶジェイルとも打ち解けてきた。
握手は一瞬。掌の温度を確かめて、離す。
「じゃあ、また。三者での安全保障会議で会おう。ルディアで待ってるよ」
「ああ。橋は両方からかけよう」
踵を返し、石畳を抜けて港へ向かう。縄と樹脂と潮の匂い。港はいつも通り、忙しい音で生きている。
「おーい、寝不足顔の英雄さーん!」
桟橋の先でリオンが手を振った。陽焼けの顔、いたずらっぽい目。舵を握らせたら外さない男。
「おはよう、積みは?」
「前に医薬、後ろに乾パンと毛布。真ん中は──」
「人のために空けた、だろ?」
「百二十まで。老幼優先。検疫は桟橋で一次、船内で二次。『三問一礼』は覚えてますか?」
三問一礼。出身区画、避難経路、世帯の合言葉。礼は右手を胸に二拍。還し手対策の簡易手順だ。
「忘れない。偽者は礼が雑になる」
「さすがカイ殿」
会話を聞いたフィオナが短く頷き、護衛の配置を視線だけで散らす。ユランは勝手にタラップを上がり、船首で風を嗅いだ。
「出すぞ!」
リオンが甲板に声を飛ばす。
「今日は急ぎで優しい航海だ、手を休めるな!」
係船ロープが外れ、船が岸を離れる。帝都の石造りが、ひとつ分だけ遠くなる。掌に残る握手の感触は心地よくはない。けれど悪くもない。
「本庁に着いたら段取りはこうだ」
俺は短く区切る。
「一、広場で帰還告示。ニ、井戸と共同釜の増設を即日──水の列を潰すのが最優先。三、夜間見回りは混成で倍増。初日と二日目が一番荒れる」
「配給券は色で分けましょっか」
リオンが指を鳴らす。
「遠目に見えるし、数字より早い」
「色は三色。朝は青、昼は黄色、夜は赤。印は日帰りで変える。今日は双三角、明日は破線の円」
「了解。印版は俺の箱にある」
「帰還の割り振りは、本庁でミレイが台帳を立ててるはずだ。俺らは初便を連れて帰る。告知は到着後すぐ──奇数日、偶数日で区画を分ける。水と下水の負荷に合わせよう」
「口上はラズに回せば、街角で広がるのが早い」
リオンが笑う。
「誇張抜きで、安心を煽りすぎない言い方は、得意そうですし」
「どんなイメージだよ?」
ラズが困り顔で言った。
「まあ、ラズに頼む。門前の呼び出しは『家の灯』でいく。住めない家でも窓に灯りだけは入れる。ネリアの隊に仮灯の台を作らせよう。木枠と反射板で十分だ」
風が帆を叩き、船は川筋を掴んで伸びる。水面を切る音が、頭の中を整えてくれる。
甲板の端で、フィオナが低く問う。
「……貴殿は、休めるのか」
「本庁までは無理だな。アルディナが待ってる。報告と次の割り振り。夜になったら寝る」
「なら、昼は私が盾。誰が来ても三言までしか喋らせぬ」
「頼もしい」
リオンが半身で振り返り、声を落とす。
「……怖くないんですか?」
「何が?」
「帰ることですよ。勝って戻るより、『暮らし』を取り戻すほうが難しい」
「怖いよ」
正直に言う。
「でも、怖さの正体はたいてい段取りの穴だ。穴を埋めれば、ただの重労働になる」
「ふふ、相変わらずの社畜精神ですね」
脳内でレイナに嘲笑された。
戻れば、仕事は山積みだ。難しい顔も、泣き声も、怒鳴り声もあるだろう。けれど知っている。鍋の匂い、夜の見回りの足音、朝のパンの湯気──それが重なれば、生活は戻ってくる。
みんなの帰る場所を整える仕事なら、頑張る気になれる。帆の影が甲板を横切り、俺たちはまっすぐルディアへ向かった。