73.5 新時代の産声
読んでも読まなくても大丈夫です!
三者共同声明の内容と、帝国内が描かれています。
帝国、王都グランマリア、ルディア=アークフェルド連邦は、これ以上の流血を避け、市民の生活を最優先に据えるため、以下の通り合意した。
一、停戦の確認
本日をもって、三者は一切の攻撃行動を停止する。
二、撤兵の実施
帝都周辺からの撤収を三日刻み四段階で行う。撤収路は市民の生活動線と交差しない安全回廊とし、武器の抜刀・挑発を禁ずる。
三、市民保護と生活再建
市街の治安維持は混成警邏隊(帝国・王都・連邦)が担当する。略奪・報復を禁じ、違反者は各国協定に基づき処罰する。
四、捕虜・負傷者・医療支援
捕虜は相互に名簿照合の上で交換する。負傷者については国籍を問わず近傍の診療所へ搬送し、医薬・食糧は三者で融通する。
五、共同復興
境界地帯の復旧は混成作業団を編成し、三か月ごとに現場責任者を持ち回りとする。資材・賃金の基準は統一し、中抜きを禁ずる。
六、交易の再開
当面、鉄・工具・革製品を帝国より、穀物・塩・薬草を連邦および王都より供給する。基礎物資の関税は暫定ゼロとする。
七、教育と人材交流
留学生・技師・治安吏員の相互受け入れを開始する。学び舎を政治宣伝の場とせず、思想・出自による差別を禁ずる。
八、安全保障会議の設置
帝国・王都・連邦の代表者による定例会合(毎月)を設け、国境警備・通商摩擦・難民保護を協議する。武力選好の抑制を最優先とする。
九、真実公聴会
戦時の命令系統・現場実態・被害の経緯を公開の場で検証する。責任の追及は私刑ではなく記録と制度の改善によって果たす。
十、「還し手」への共同対処
攪乱・記録改竄等の事案について、情報・証拠を三者で共有し、捜査および防護手順を統一する。
十一、言葉の節度
勝利の誇示・敗北の誹謗を自制し、報道は市民の安全と復興を最優先に扱う。
本合意は、本日の公布をもって効力を生ずる。
――
帝国 第三皇子 ジェイル=イゼル
王都王国 国王 アルディナ=レーヴェル
ルディア=アークフェルド連邦 政務代表 カイ=アークフェルド
(付記)各条文の細目は三者の実務代表による詰めを経て、逐次公表する。
◇◇◇
午前の鐘が二度鳴るころ、帝都の掲示板に新しい布告が貼られた。赤い蝋の封緘が三つ、斜めに並ぶ。読み上げ人の声は強がりを捨て、文言を噛みしめるようにゆっくりだった。人々は近づいては離れ、また戻ってくる。
市場では、粉屋の女主人が袋の口を結び直した。塩の仕入れが止まってから配分は日ごとに薄くなり、客と目を合わせるたびに胸が縮んだ。彼女は「関税ゼロ」という言葉をまだ正しくは理解していない。ただ、明日届く粉の山を想像し、計量台を布で拭いた。拭く手つきが、昨日より少しだけ丁寧になる。
路地裏の鍛冶場では、火床の前で若い徒弟が耳を澄ましていた。鉄と工具の往来が再開される——その一文に、肩が軽くなる。軍への納品が途絶えた日から、彼は初めて自分の鎚の音が好きになれずにいた。鎚は、また生活のために打てるのかもしれない。彼は炉に風を送り、灰を静かに均した。
兵舎の長椅子で、古参兵が巻藁を枕にして天井を睨んでいた。停戦は歓迎だが、撤兵の四段階という算段には、古傷が疼く。段取りの悪い撤退は死者を生む。だが「混成警邏隊」という言葉が彼の眉間の皺を少しほどいた。敵と肩を並べて歩く日が来るのなら、若い兵たちが覚える「憎しみの歩幅」を狭くできるのかもしれない。
貴族街のサロンでは、薄い茶を口にした婦人たちが「真実公聴会」の一項にざわめいた。恥を晒すのか、それとも救いになるのか。ひとりが「晒すのは庶民だけではなく?」と問い、もうひとりが肩をすくめる。壁の鏡は、誰の顔にも少し疲れを映していた。
寺院の前で、黒衣の司祭が掲示を読み終えると、腕にすがる未亡人が静かに涙を拭った。彼女は賠償金の額よりも、名簿照合と墓前で読まれるであろう正しい名を待っている。戦場で行方不明になった夫の名が、音として戻ってくること。それが、彼女の「明日」だった。
学舎の講堂では、書記官見習いの若者が友人にささやいた。「留学生の受け入れだってさ。君、外国語の授業、真面目にやってたっけ?」軽口に返るのは、乾いた笑いだ。彼らにはまだ実感がない。ただ、教壇の上で古地図を丸める教師の手つきに、いつもより少しだけ希望が混じっているのを、なぜか見逃さなかった。
工事現場のすみに、ひとりの男が立っている。昨日まで瓦礫の山だった通りは、人の手で“道”になりつつある。彼は混成作業団の腕章を受け取り、隣に並んだのが王都訛りの青年だと気づく。互いの靴は泥に汚れていた。名前は、まだ名乗らない。ただ、同じ方向にスコップを入れると、土は驚くほど軽かった。
露店の語り部は、いつもより口数を減らした。彼は「言葉の節度」という一文をゆっくり繰り返し、台の上の鈴を指先で回す。勝ち誇る物語は売れる。だが、明日もここで語り続けるなら、売れるかどうかだけで選んではいけない気がした。子どもが二人、足をぶらぶらさせながら座っている。
そして、帝都の外れ。仮設の長屋の前で、流れ者の青年が布告を読むふりをして、文字の形だけを追っていた。彼は文字を半分しか知らない。けれど「安全回廊」「混成」「医療」という音が耳に残る。どれも難しい言葉だ。難しいが、彼の胃の底の石を少しだけ溶かした。彼は昼過ぎに診療所へ行こうと決める。咳が止まらない妹の手を引いて。
全体として、帝都は安堵と猜疑のあわいに揺れた。誰もが、今日いきなり幸福になるとは考えていない。だが、怒号と太鼓の代わりに、約束の文章が掲げられた日を、人々はきっと覚えている。いつか振り返ったとき、「あの日から、少しずつ良くなった」と言えるように——そんな期待が、控えめに、しかし確かに街路を流れていった。