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72 真の王の器

 時間は、ただ無情に過ぎていった。

 帝国の大軍が、このもぬけのもぬけの殻の街に足を踏み入れてから、すでに丸二日が経過しようとしていた。

 将軍バルカスは、本庁のがらんどうになった執務室で、苛立ちと得体の知れない恐怖にその心を蝕まれていた。

 斥候たちが街の隅々まで、文字通り床板を一枚一枚剥がすかのように、徹底的に創作を続けていた。

 だが、結果は同じだった。

 ──誰も、いない。

 ──罠も、ない。

 そこには、人の営みの痛々しい残り香だけがまるで亡霊のように漂っている。

 炊事場には、まだ温かいままの鍋が。

 学び舎には、書きかけのノートが。

 街の住人全員が、ほんの一瞬前まで確かにここにいて、神隠しにでもあったかのように、忽然と姿を消してしまったかのようだ。


「……将軍! これ以上は、兵士たちの士気が……! 皆、この不気味な静けさに怯えきっております!」


 副官の悲痛な声に、バルカスは唇を強く噛み締めた。

 わかっている。

 これ以上、この忌まわしい街に留まるのは危険だ。

 罠がないということが、逆に最大の罠のように思えてくる。

 あのカイという男は、一体どこへ消えた?

 この無駄な時間こそが、奴の本当の狙いなのではないか……?

 得体のしれない恐怖が、歴戦の将軍である彼の背筋を這い上がってくる。


「……クソ」


 三日目の朝。

 ついに、バルカスの堪忍袋の緒が切れた。

 これ以上、この不気味な街に関わるのはごめんだ。


「……撤退だ」


 バルカスの口から、力ない声が漏れた。


「全軍、撤退! これより我々は、西の反乱軍の掃討を最優先とする! この呪われた街は、後回しだ!」


 それは、事実上の完全なる敗北宣言だった。

 帝国の大軍は戦うことなく、ただ一つの空っぽの街が放つ見えざる圧力に屈し、その踵を返した。

 彼らは、兵士としての誇りを完全にへし折られたのだ。

 整然とルディアになだれ込んできた時とは比べ物にはならないほど、その撤退の足取りは乱れ、どこか怯えているように見えた。


 地下司令室で、その光景を最後まで見届けていたアルディナは静かに息を吐いた。

 ラズによって作られたモニターには、蜘蛛の子を散らすように去っていく帝国の軍勢が映し出されている。

 

「……見事だ。一人も血を流すことなく、この大軍の心を折ったか」


 王は空っぽの街に出ると、満足げに、どこか畏怖を込めて呟いた。

 

「あとは──帝都の制圧に成功しているか、それだけが問題だ」

「きっと、彼らならやってくれますよ」


 ミレイは期待を込めて微笑んだ。


 こうして、カイの仕掛けた「空城の計」は一滴の血も流すことなく、完璧な形で成功を収めたのだった。


   ◇◇◇


 ──戦争は、終わりだ。

 俺の静かな宣言が、バルディア帝国の一つの時代の終わりを告げた。

 皇子ジェイルは全ての力を失い、玉座の前で抜け殻のように崩れ落ちている。

 だが、俺は彼を見捨てたくなかった。

 彼の心を埋め尽くしていた憎しみは、創世の権能が放つ光の中に溶けて消えていた。

 

「……ジェイル」


 俺の声に、ジェイルはびくりと肩を震わせた。


「……殺せ」


 掠れた声で、彼は言った。


「私を殺し、英雄となれ。それが、勝者の権利だろう」

「馬鹿言うんじゃないよ」


 僕は、ジェイルの頭を引っ叩いた。

 彼は目を丸くしてこちらを見る。


「私には、もう何もない。この国も、民も、父すらも、私を見捨てた」

「そんな簡単に、父は息子を見捨てない。たとえ世界に恨まれる暴君であっても、君は父にとってたった一人の可愛い息子なんだよ」

「……」


 ジェイルは俯いた。


「……だから、もう、国を背負って苦しむ必要もないんだよ」

「……いや」


 ジェイルは首を横に振った。


「この国を『敗戦国』にしたのは、完全に私の責任だ。そして、周辺地域の国々に大きな被害を出し続けたのも、全て私の責任だ。その責任から逃れ、玉座から降りることは、私の、そして父の理念に反する」

 

 衝撃の発言に、俺たちは度肝を抜かれた。

 

「つまり、敗北の責任を全て背負うと……?」


 フィオナは真剣な眼差しで言った。


「まだ、やるのか……?」

「ああ」

「……もう一度、父と共に、この国を創る。その覚悟はあるか?」


 ジェイルはしばらく虚空を見つめていたが、やがてその瞳に、かすかな光が宿った。

 彼は震える足で、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、俺に向かって、深く頭を下げた。


「……ある。私に、もう一度、機会をくれないだろうか」


 彼の姿はまさしく、過去と決別し、新たな道を歩むことを決意した、一人の王の覚醒の瞬間だった。

 その瞬間。


「──見事な茶番であったな、カイ殿」


 玉座の間に、ゲルハルト公爵がその腹心たちを率いて堂々と入ってきた。

 その顔には、勝利を確信した傲慢な笑みが浮かんでいる。 


「ジェイルは、我ら旧帝国貴族評議会が、責任を持って預かろう。あとは、お主らが、速やかにこの帝都から立ち去ってくれれば、それで……」

「──待て」

 

 俺の冷たい声が、彼の言葉を遮った。

 

「……何かな?」

「あんたに一つ、聞きたいことがある。──なぜ、俺たちの奇襲のタイミングを完璧に知っていた?」 

「何を……我らは、貴殿らの勝利を助けるために……」

「とぼけるなよ」


 俺の背後から、ラズが前に進み出た。


「あんたらの反乱軍の動きは、あまりに手際が良すぎた。まるで、俺たちがいつどこで何をやるか、最初から全部知っていたみたいにな」

「……」

「あんたの手紙を俺たちが見つけたのも、偶然じゃない。あんたがわざと、俺たちの斥候の前に落としたんだろ? そんで西の戦線からは、絶妙なタイミングで兵を引いた。我々とジェイル派が潰し合い、疲弊しきったところを、漁夫の利でまるごと頂くために」


 俺は鋭く事実を突きつけた。

 そうだ。俺たちは、最初から気づいていた。

 ゲルハルト公爵。こいつはアルブレヒト辺境伯を利用して自分らの地位を上げる、ジェイル以上に狡猾で、危険な野心家だということに。


「……ククク。いつから、気づいていた?」


 ゲルハルトは、偽りの笑顔が張り付いていた仮面を取り払ったようだ。


「最初からだ」

 

 俺は言い放った。


「あんたらのことは、信用したフリをしていただけだ。ジェイルという、わかりやすい悪を倒すために、あんたというもっとタチの悪い悪を泳がせていただけに過ぎない」


 その言葉を合図に、玉座の間の全ての扉から、王都騎士団とバルハ率いるトウラの戦士たちが一斉にその姿を現した。

 ゲルハルトたちの退路は、完全に断たれた。


「……馬鹿な……! 我らは、帝国の正当なる……!」

「──ただの反逆者、だろうが。あんたらは、国の未来なんてこれっぽっちも考えちゃいねぇ。考えてるのは、権力に握って甘い蜜を吸う自分たちのことだけだ」


 俺は、冷徹に言い放った。


「ゲルハルト公爵。及び、そこにいる全員を、帝国に対する国家反逆罪の容疑で逮捕する!」


 呆然とするゲルハルト。

 その横で、王としての威厳を取り戻したジェイルが立ち上がった。

 そして、自らの手で、父から受け継いだ皇帝の剣を抜いた。


「──我が父と、我が民、そして、我が友、カイ=アークフェルドの名において、貴様ら売国奴に、裁きを下す!」


 それは、真の王が誕生した瞬間だった。

 大陸中を揺るがした大戦は、こうして、誰もが予想しなかった形で幕を閉じたのだ。

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