71 玉座に射す光
砕け散ったワイングラスの音が、ジェイルの敗北を告げるファンファーレだった。
玉座の間に踏み込んだ俺たちを前に、ジェイルの側近たちが狼狽しながらも慌てて剣を引き抜いた。
「き、貴様ら、どこから……!」
「皇子殿下の御前であるぞ! 無礼者め!」
彼らの虚勢は一瞬で終わった。
俺の後方から、巨大な影──ゴウランが、地響きを立てるような足取りで進み出る。そして、あっという間もなく、最も近くにいた側近二人の首根っこを鷲掴みにした。
「ぐっ……!」
「がはっ……!」
ゴウランは、まるで子猫でも扱うかのように二人を軽々と持ち上げ、そのまま首を締め上げる。抵抗する間もなく、二人の側近は白目を剥き、ぐったりと意識を失った。その亡骸のようなものを、ゴウランはゴミでも捨てるかのように、無造作に床へと転がした。
残りの側近たちは、その光景を前に完全に戦意喪失し、その場にへたり込んだ。
「さて、と」
俺はその惨状には目もくれず、ゆっくりとジェイルへと歩み寄る。
シェルカとラズは、俺たちの背後の破壊された扉の両脇に、まるで影のように張り付いていた。彼らの手には、血塗られた刃。この玉座の間に新たな侵入者を一匹たりとも入れるつもりはないという、無言の意思表示だ。
玉座の間で、孤立無援となったジェイル。
だが彼は、まだ王としての威勢を捨ててはいなかった。その顔に怒りと屈辱の色を浮かべ、震える声で叫んだ。
「……面白い。ネズミどもが、城の中心まで入り込んでくるとは。だが、それで勝ったとでも思っているのか?」
彼は玉座の肘掛けに隠された、警報用の魔石を力強く叩きつけた。
「緊急連絡だ! 玉座の間に賊徒が侵入した! 今すぐ集結し、この者どもを塵も残さず殲滅せよ!」
その声は魔力によって増幅され、王宮中に響き渡ったはずだ。これで、数分もすれば帝都に残された数千の兵士たちが、この玉座の間になだれ込んでくるだろう。
だが──俺は、笑っていた。
「……無駄だ、ジェイル」
「あ?」
「お前の、その自慢の近衛兵たちがだな。今頃、ルディアのもう一つの軍隊に、叩きのめされている頃だ」
俺は指をパチンと鳴らした。
その瞬間、玉座の間の巨大な窓の外で、凄まじい爆発音と、兵士たちの絶叫が次々と轟き始めた。
ジェイルが、信じられないといった表情で窓の外を見る。
王宮に駆けつけようとしていた近衛兵たちが、どこからともなく現れた王都騎士団、トウラ戦士団、そしてシレジアの海兵たちによって次々と無力化されていく。
──連合軍本隊が、すでに突入を開始していたのだ。
「……馬鹿な……。ルディアは、もぬけの殻だったはず……。西の軍はどうした……!?」
「ああ、西の軍なら今頃、ゲルハルト公爵の反乱軍と仲良く挟み撃ちにされて、壊滅してるところだ」
俺は淡々と事実を告げた。
フィオナが、その横で一枚の羊皮紙を広げて見せる。
それは、ゲルハルト公爵と俺たちの間で秘密裏に交わされた、一時期的な共同戦線の盟約書だった。
「お前がルディアという『空城』に気を取られている間に、俺たちはお前の敵と手を組んだ。お前が、俺
たちを盤上から消したつもりでいた、その盤そのものをひっくり返させてもらったのさ」
情報戦、心理戦。そして、外交戦。
その全てで、お前の負けだ。
俺とフィオナの言葉という名の刃が、ジェイルの心を少しずつ抉っていく。
「……そんな、この、私が……。この、帝国が……」
ジェイルの顔から血の気が引いていく。
彼のプライドが、築き上げてきた傲慢の城が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのが手に取るようにわかった。
「ああ、それと、お前の民だがな。今頃『偽りの皇子ジェイルは倒れ、女神の化身たる真の救世主が現れた』って噂で持ちきりだぜ。お前がこの玉座に戻ることは、もう二度とない」
その一言が、決定打となるはずだった。
だがジェイルは、絶望の底で壊れたかのように笑い出した。
「……ハハッ……ギャハハハハハ! そうか、そうか! 民も、兵士も、国すらもこの私を見捨てたか!」
彼は血走った目で、ゆっくりと立ち上がった。その身体から、黒く禍々しいオーラが噴き出し始める。
「ならば、もはや、要らぬわ! 国も! 民も! 貴様らも! そして、この私自身も!!!」
玉座の間に、空間が歪むほどの凄まじい魔力が渦巻く。
彼が、自らの生命そのものを触媒として、禁忌の魔法を発動させようとしているのだ。
「──全て、要らなかったんだ! この世界には! 帝都もろとも、塵となれェッ!!」
ジェイルの絶叫とともに、玉座の間は黒い絶望の魔力で満たされた。
自らの生命を触媒とした禁忌の自爆魔法。あれが解放されれば、帝都が地図の上から消滅する規模の被害が出る。
仲間たちが防御態勢を取る。そんなの無駄だ。防ぎきれるはずがない。
──くそっ!! ここまで来て全員道連れかよ!!
俺が最終手段の天岩戸の発動を覚悟した、その瞬間だった。
俺の身体の奥そこから、自身の意志とは関係なく、膨大でどこまでも温かい力が溢れ出してきた。
──スキル「創世の権能」が、勝手に発動したのだ。
「……なんだ、これ……?」
俺の手のひらから放たれたのは、破壊の光ではない。
金色の、陽光のような優しい光の粒子。
その光は、暴走するジェイルの黒いエネルギーと対抗するものではない。
まるで、凍てついた心を溶かすかのように、優しく穏やかに、包みこんでいく。
「な……よせ……! もう終わりにしたいんだ!!」
ジェイルが叫ぶ。その声はもはや怒りではなく、助けを求める子どものような、悲痛な響きを帯びていた。
金色の光が彼の魂に触れた瞬間、俺の脳裏に断片的な映像が流れ込んできた。
──幼い頃から「次期皇帝」として、帝王学だけを叩き込まれた日々。
──唯一の心の支えであった母の、早すぎる死。
──老い、病に伏し、期待の言葉だけをかけ続ける皇帝の父。
──誰にも弱音を吐けず、誰にも本心を明かせず、ただ一人、巨大な帝国の重圧にその小さな肩で耐え続けてきた、孤独な少年の姿。
「……そうか。お前もずっと、一人だったんだな」
俺は無意識に呟いていた。
その声は、ジェイルの心の最も弱い場所へと届いた。
「黙れ……! 貴様のような、成り上がりの小僧に、私の何がわかる……!」
「わかるよ」
俺はゆっくりと、光の中の彼へと歩み寄った。
「生まれた時から国を背負うことが決まってるなんて、想像もできないはずの重圧だったはずだ。同年代のみんなは楽しそうに遊び、家族との幸せを満喫している中、君は誰も信じられず、力で支配するしか自分の居場所を保つ術を知らなかった。……違うか?」
ジェイルの瞳が大きく見開かれた。
黒いオーラはやがて消えていき、彼の身体を蝕んでいた禍々しい魔力も、浄化されていく。
「……父さんだって、もう、そんなに長くはないんだろ? 本当はただ、認めてほしかっただけなんじゃないか。すごいなジェイル、と。もうお前に任せれば安心だ、と」
俺は彼の目の前で、足を止めた。
「なあ、ジェイル。もういいんじゃないか。皇帝とか、覇権とか、そんな思いだけの鎧は、脱ぎ捨ててさ。残された時間くらい、ただの息子として、親父さんと一緒に、穏やかに暮らす。……それこそが、本当の『幸せ』なんじゃないか?」
それは前世で、自分の人生を犠牲にしてただ働き続けた、俺自身の後悔の言葉でもあった。
俺の言葉は、ジェイルの最後の心の壁を打ち砕いた。
「……う……あ……ああ……」
彼の瞳から、一筋、また一筋と涙がこぼれ落ちる。
それは、彼が皇子となってから、いや、生まれてから初めて流した、本物の涙だったのかもしれない。
やがて光が収まった時、そこに立っていたのはもはや暴君の顔ではなかった。
憎しみも、孤独も、全てを洗い流され、ただ呆然と立ち尽くす、一人の無力な青年の姿だった。
彼はその場にゆっくりと崩れ落ち、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
俺は、その痩せた肩があまりに小さく見えることに、胸が締め付けられた。
そして、気づけばその身体を、そっと抱きしめていた。
「……!?」
驚いて身体を硬くするジェイルの耳元で、俺は静かに囁いた。
「辛かったよね。苦しかったよね。この国を治めていれば、『武力こそがすべて』と錯覚することもやむないと思うよ」
「……歳下の、くせに……」
ジェイルが泣きながら言った。
「年齢なんて、今はどうでもいいんだよ。俺は君に、幸せになってほしいだけなんだ」
「……」
「民はきっと、君を非難する。君が犯した罪は消えない。でも痛みってのは、経験しないとわからないものなんだよ」
俺はゆっくりと身体を離し、彼の涙に濡れた瞳をまっすぐに見つめた。
「いるじゃないか。この大陸にもう一人。『玉座の痛み』を、誰よりも知る人が」
「え……?」
「王都の、アルディナ陛下だよ。彼も、腐った国をたった一人で変えようと、ずっと戦ってきた。君の苦しみを本当に理解できるのは、俺なんかじゃない。きっと、あの人だけだ。……会いに行って、話してみなよ」
その言葉に、ジェイルが目を丸くした。
「そんな……私はずっと王都に……取り返しがつかない被害を……」
「アルディナは、それを恨み続けるような男じゃない。俺からの紹介となれば、尚更だ」
俺は立ち上がると、仲間たちに向き直った。
フィオナもザルクも、誰もが静かに、この結末を見届けていた。
俺は崩れ落ちたジェイルに背を向けると、窓の外……勝利の歓声が上がり始めた帝都の空を見つめながら、静かに宣言した。
「──戦争は、終わりだ」