65 女神の寵愛
俺は、ゆっくりと瞼を開けた。記憶はある、身体も動く。大丈夫だ。きっと体力に限界を迎えて休んでいただけだろう。
「……カイ!」
「旦那!」
目の前に、仲間たちの心配そうな顔があった。
俺は、本庁の自室のベッドで寝かされていたらしい。窓の外は、まだ夜が明けたばかりの薄紫色の空が広がっている。
「みんな、無事か!?」
俺は飛び起きた。フィオナは涙を浮かべながら、何度も頷いた。
「ああ……貴殿のおかげで、全員無事に第二防衛線まで撤退できた。撤退中の死者は、一人も……」
「そうか、よかった……」
安堵で、全身の力が抜けていく。
隣にいたガランが、少し気まずそうに俺の肩を叩いた。
「……すまない。俺が不甲斐ないばかりに……」
「馬鹿言うな、あの危険な最前線でよく戦ってくれたよ。やっぱあんたの遊撃部隊は本物だな」
俺たちは無言で、拳を軽く突き合わせた。それだけで十分だった。
そこで、ラズが呆れと感心の混じった顔で口を開いた。
「にしても旦那。一体、何をやったんだ? 西の渓谷、ユランが言うにはもはや別の惑星みてえな地形になってるみたいだぜ。本当にあんた一人がやったのか?」
仲間たちの視線が一斉に俺に集まる。
俺は、あの最後の光景を思い出しながら語り始める。
「……スキル名は、天岩戸。俺の魂と、このルディアの大地、そしてレイナの力を無理やり一つに束ねて放った、禁忌の御業だ。大地そのものを兵士に変え、空から星を降らせる。まさしく、神に等しい力ってやつだが……代償も大きかった。今の俺は、完全に空っぽだ。魔力は切れていないが、スキルを発動する体力は残ってない。レイナの回復にも時間はかかりそうだしな」
すると、レイナが突然姿を表した。俺と違い、あまり消耗している様子はない。
「私に回復は必要ありませんよ。これでも一応、『女神ですから』」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「カイ様、あなたにはまだ戦ってもらわなければなりません。これは、私からの無茶ぶりであり、誰もが気を使って発していない言葉でもあると思いますが……あなたが戦わなければ、この戦争でルディアは滅びます」
力強い口調で言い放ったその言葉に、場の空気がピタッと静まる。
……滅びる、その一言には果てしない重みがある。国が滅びるか、自分が無理をして戦うか。そんな二択を突きつけられて、俺が引くことなんてできるわけがない。
「しかし、カイ殿は今……!」
フィオナが少し怒りを滲ませた表情でレイナに訴える。
だが、レイナはそんなフィオナの心配を優雅な微笑みで一蹴した。
「ええ、体力も魔力も、精神も消耗していることは重々承知です。……ただし、カイ様、もっと私に頼っていいのですよ」
レイナは俺の手をぎゅっと握り、まぶたを閉じた。
すると、俺の体に力が流れ込んでくる。魔力も、体力も、全てが回復していくのを明らかに感じた。
フィオナが少し不満そうな顔をしているが、今は気にしている場合じゃない。
「どうですか?」
「……戦う前よりも元気だ」
ラズが「そんなのありかよ」と呆れ気味に笑った。
女神が仲間にいるってのは、これほどまでに理不尽で、心強いものなのか。
「私の力は、一人の人間に分け与えるくらいでなくなるほど微小なものではありませんよ。私が惚れ込んだ相手である以上、私と共に、この戦いを終わらせていただきますから」
惚れ込んだとか、言うな!フィオナがまた嫉妬するだろ……わかってないのかこの鈍感女神は?
とはいえ、これで戦況は変えられる。もう一度、天岩戸は無理でも、それに近い、戦局を覆す一手は打てる。
「レイナ殿も……戦うのか?」
フィオナが少し不安そうに尋ねる。恋敵とはいえ、その心配には彼女の優しさが出ている。
「いえ、運命の女神である私に攻撃的な能力は備わっておりません」
「じゃあ、何するんだ?」
「簡単なことですよ。前線で戦う兵士に、『運命の加護』を与えます。量では圧倒的に負けていても、兵士の『質』を上げることで渡り合える可能性が高まります」
なるほど……。段々と、「詰み」と思われていた状況が打破されていくのを感じた。
部屋の隅で静かに控えていたユランが、ふっと鼻を鳴らした。
「我が主よ。このユラン、腹さえ満たせばいつでも戦えます」
その言葉通り、あれほどの激戦を繰り広げたユランの身体には、もはや傷一つ見当たらない。
神獣の持つ、驚異的な回復力。彼が戦えるというのも、俺たちにとって大きな希望となる。
俺の全快、レイナの支援、そしてユランの存在。俺たちの手札は揃ったな。
「……作戦変更だ」
俺は立ち上がり、広げられた地図を指さした。
「籠城はしない。こちらから打って出るぞ。目標は、東の森へ向かっている帝国の別動隊だ。奴らを、ここで完全に叩き潰す!」
「正気か、旦那! 相手は五千だぞ!」
「数時間前に一万人以上の兵士を一人で倒した男に対して、その心配は無用ですよ」
ラズの懸念に、レイナが深く微笑んだ。そこには俺への圧倒的な信頼が感じられた。
「奴らは、俺らが『攻められ待ち』をしていると踏んでいるはずだ。その油断を、徹底的に突くぞ」
俺は仲間たちの顔を見渡した。この無謀な作戦を可能にするのは、俺であり、レイナであり、この国の全員だ。
「フィオナは騎士団の半数を率いて、ゴウランと共に西の防衛ラインを維持。残りの全戦力は、俺とレイナとともに東の森へ向かう」
「「「了解!!」」」
「そして──」
俺は、地図上の遥か北……帝国の本土を、指で強く叩いた。
「王都とシレジアの援軍が到着次第、俺たちは、この戦争を終わらせるための、最後の戦いを仕掛ける。──帝都カレドニアへ、こちらから攻め込む!」
俺だって、戦争なんざしたくないさ。
でもこれは、「戦争をなくすための」戦争だ。
ここで受け身になっていてはいつまでも遅れを取り続ける。
「行くぞ、お前ら。戦争を終わらせに」