60 亡霊たちの鎮魂歌
冷たい空気が肌を刺す。
老婆は、その皺がれた肌に愉悦の笑みを浮かべた。
「貴方が守ろうとした者たちに、その手でとどめを刺していただきましょう」
彼女が、すっと手を横に振る。
その背後から飛び出してきたのは、ザルクだけではなかった。工房から消えた職人、他国からの留学生、そして、まだ幼さの残る、十代半ばの獣人の少年。この数週間で、ルディアから神隠しにあった全ての者たちだった。
「……嘘だろ」
フィオナが絶句した。
だが、本当の地獄はそこからだった。
その亡霊のような集団の中から、一人の少女がふらりと前に進み出た。
「……あ……あ……」
隣で、ラズが息の詰まるような声を漏らした。
その反応を見て、俺はすべてを察した。
──王都で消えた、血は繋がっていないが、彼のたった一人の妹。
「ラズ……?」
俺の声は届かない。彼の世界は今、目の前の少女と、自分だけになっていた。
「よくもまあ、見つけ出したものです」
老婆が嘲笑う。
「彼女は、私の最高傑作。長年飼育してきた、特別な人形ですよ」
「この……外道がァッ!!」
ラズが獣のような雄叫びを上げて飛び出した。
だが、その前に立ちはだかったのは、無慈悲なまでの剛腕。ザルクだった。
ラズはいとも簡単に弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「ぐはっ……!」
「ラズ!」
その瞬間、老婆が指揮棒を振るうように指を動かした。
ザルクを筆頭に、操られた人々が一斉に俺たちに襲いかかってきた。
地獄の幕開けだった。
斬れない、殴れない。相手は、ついこの間まで俺たちと共に笑い合っていた仲間であり、民なのだ。
「くそっ! どうすりゃいいんだよ!」
騎士の一人が叫んだ。
フィオナは涙を浮かべながら、必死に攻撃をいなしている。
シェルカの矢も決して急所を狙えず、ただ、相手の動きを鈍らせるだけ。
だが、向こうは一切の容赦がない。
仲間たちは次々と傷つき、追い詰められていく。
人の心と絆を弄びやがって……!
自分一人の力で戦ってみろよ。弱いから、強いやつを操らなきゃ勝てねぇんだろ?
「──カイ様! 彼らの繋がりを断つのです!」
脳内に、レイナの切迫した声が響く。
「老婆は彼らの魂に、呪いの糸を繋いで操っています! その糸の根源は、彼女の腰にあるあの黒い宝玉! あれを破壊すれば、術は解けるはず!」
黒い宝玉。あれか!
だがそこへたどり着くには、ザルクと数十人の壁を突破しなければならない。
「フィオナ! シェルカ! 俺が道を作る! 一瞬でいい、あいつらを止めてくれ!」
俺は創造の力で、地面から無数の氷の壁を生み出し、敵の動きを阻害する。
その隙に、フィオナとシェルカがザルクの注意を引き付けてくれた。途中、二人の苦しむ声が聞こえたが、今は振り向いてられない。
だがその目の前に、一人の少女がふらりと立ちはだかった。
ラズの妹。
彼女は、その小さな手に握ったナイフを、何の感情もない瞳で俺に向けた。
「……どけ」
「カイ様! 彼女も操られているだけです!」
「わかってる! わかってるさ! だから……」
俺は彼女を傷つけないように、その腕を掴もうとする。
その瞬間、背後からラズの絶叫が響いた。
「旦那ァッ! そいつから離れろォッ!!」
見ると、少女の口元がニヤリと歪んでいた。
──罠だ!
少女の身体から黒いオーラが噴き出し、俺の身体に絡みつく。動けない!
「ククク……愚かな。情に絆されたな、カイ=アークフェルド」
老婆の、勝利を確信した声。
まずい。このままでは……!
その時だった。
「──テメェの相手は、俺だろうがァッ!!」
壁に叩きつけられていたはずのラズが、血反吐を吐きながらも鬼の形相で老婆に飛びかかっていた。
彼は、自らの過去との決別を、そして、友を救うための決死の特攻を選んだのだ。
「ラズ! やめろ!」
「うるせえ! 旦那は、自分のやるべきことをやれ! ……こいつは、俺がケリをつける!」
ラズの捨て身の攻撃が、老婆の注意を逸らした。
俺を縛っていた呪いの力が一瞬緩んだ。
今しかない!
俺は最後の力を振り絞り、創造の力を一点に集束させた。
狙うは、老婆の腰にある黒い宝玉。
光の矢が、俺の手から放たれる。
「──砕け散れェッ!!」
矢は、吸い込まれるように宝玉へ直撃した。
パリンという甲高い音と共に、宝玉は粉々に砕け散る。
その瞬間、ザルクをはじめ、操られていた人々の身体から黒いオーラが霧散し、彼らはその場に崩れ落ちた。
「……おのれ……!」
老婆がラズを蹴り飛ばし、忌々しげに俺を睨む。
だがもう遅い。
「──お前の負けだよ、クソババア。人形に頼らず、自分の力で戦っていれば命だけは残してやろうと思っていたが……その必要もないらしいな」
俺は、ふらつきながらも老婆の前に立った。
その背後には、倒れているフィオナとシェルカ、そして、まだ闘志の炎を失っていないラズがいた。
「人の記憶と絆を弄んだ罪。一生をかけて償ってもらう。地獄でな」
そして俺は、とある名前を呼んだ。
「いけ、ルオ、ユランッ!!!!」
俺の叫びに応え、ルオとユラン猛スピードで飛び出してきた。
最初から、今回の件はこいつらに任せようと決めていた。俺らの複雑な感情より、こいつらの純粋な怒りのほうが老婆には刺さるはずだ。
ルオはボーダビーストだった頃の姿に戻り、思い切り火を吹く。ユランはその角からとてつもない勢いで光線を放つ。
老婆は最期の瞬間、恐怖ではなく、恍惚とした表情を浮かべた。
「……ああ、なんと清浄なアレア様の光……。これでようやく、我らも貴方様の元へ……」
その言葉を最後に、老婆の体は断末魔すら上げることなく、聖なる光の中に塵となって浄化されていった。
「終わった……のか?」
俺は周りを見渡した。フィオナとシェルカは、口から血を吐いて倒れている。
「大丈夫か!!」
俺は二人に駆け寄った。幸い、二人ともまだ息はある。ラズも、身体はボロボロだがピンピンしているように見える。
俺は、その場にゆっくりと崩れ落ちようとした。
その瞬間だった。
俺の身体を、これまで感じたことのない巨大な奔流が貫いた。
「──っ!?」
老婆が消滅した跡地から、膨大でどこまでも温かい大地の力が、俺の身体へと流れ込んでくる。
まるで、長年詰まっていたダムが決壊したかのような圧倒的なエネルギーの奔流。
「カイ様!」
レイナの、驚きと喜びに満ちた声が響く。
「彼女の存在は、あなたと、大地の女神アレア様の力の源泉とを隔てる、分厚い『帳』でもありました! 今、その帳が一つ取り払われたのです!」
身体の奥底から力が満ち溢れてくる。
枯渇していたはずの魔力が瞬く間に全快し、さらにその上限を超えて、際限なく膨れ上がっていく。
視界が、変わる。
世界の全てがより鮮明に、より詳細に見える。
土の一粒一粒の息遣い、風の流れ、光の粒子、そして倒れている仲間たちの生命の鼓動そのものが、手に取るようにわかる。
《スキル『創造の手』が、根源回帰により真の姿へと進化します》
《新スキル『創世の権能』を獲得しました》
脳内に機械的な声が響き渡る。
ん……?スキルが進化?創世の権能?
しっちゃかめっちゃかだが、とにかくスキルが凄いことになったことは理解できる。
俺は、倒れているフィオナやシェルカ、そしてボロボロのラズたちへと手をかざした。
俺の指先から、金色の光の粒子が雨のように降り注ぐ。
これが、新たに得た力なのだろうか。
《スキル・浄化の光》
傷を癒すだけでなく、かけられた呪いや心の傷までも優しく洗い流していく。
最強の回復スキルってわけか。今の俺にぴったりじゃないか。
「……カイ、私は……」
フィオナがうっすらと目を開けた。血の跡はついているものの、苦しさはなくなったようだ。
「フィオナ……」
彼女が起き上がった瞬間、俺は力強く抱きしめた。
「……無事でよかった」
俺がこの台詞を言う番になるとは。フィオナは「ありがとう」とだけ言って、俺の胸に顔を埋めた。
シェルカとラズ、騎士たちの傷も回復させると、皆は勝利に気づいて喜び始めた。
「みんな、よく頑張ったな」