58 帝都の不協和音
ある日、帝都カレドニアの皇宮を支配していたのは、屈辱と氷のような怒りだった。
大理石の床に膝をつく宰相たちの前で、皇子ジェイル=イゼルは、玉座に身を沈めたまま、静かに目を閉じていた。
「──以上が現状の報告です。ルディアで開催された会議の結果、『大陸自由交易憲章』への加盟国は日増しに増加。我が帝国の経済影響力は、この数週間で過去に例を見ないほど著しく低下しております。」
宰相が震えた声で報告を終える。
四国会議。それは、帝国の外交史における最大の汚点となった。カイ=アークフェルドという辺境の若造一人にしてやられたのだ。力でねじ伏せることも、策謀で引き裂くこともできず、逆に国際社会の表舞台で帝国の孤立を決定づけられてしまった。
「……そうか。あの小僧一人に、我ら大帝国が道化にされた、と」
ジェイルが絞り出した声は、地を這うように低かった。
次の瞬間、彼の手元にあった黄金の杯が凄まじい勢いで壁に叩きつけられた。ガシャンという破壊音とともに、彼の怒りがついに爆発する。
「いつから帝国は、こんなにも脆くなったのだ! 力で蹂躙すれば済むものを、小賢しい正義とやらに足元をすくわれるなど……もう、生ぬるい手は使わん!」
怒声が玉座の間に響き渡る。
宰相たちが、恐怖に身を縮こまらせたその時だった。
音もなく、玉座の影から一人の老婆が姿を現した。あの、吟遊詩人を名乗る「大地の還し手」の工作員、サイレンスだ。
「皇子殿下。お怒りはごもっとも。ですが、今、力で押せば帝国は自滅するだけ。敵はもはやルディア一国でも、カイ=アークフェルド一人でもございません」
老婆の冷静な声に、ジェイルは忌々しげに舌打ちする。彼は、この得体の知れない老婆を完全には信頼していないが、その能力と情報力は認めざるを得なかった。
「では、どうしろと申すのだ! このままあの小僧が築く偽りの楽園を、指をくわえて見ていろとでも言うのか!」
「いいえ」
老婆は、その皺がれた顔に不気味な笑みを浮かべた。
「物理的な力よりも、もっと効果的に敵の心を蝕む『毒』がございます」
「……毒だと?」
「はい。──疫病、でございます」
その言葉に、玉座の間の空気がさらに凍りついた。
「我が『還し手』に伝わる、古の秘術。それは、人の記憶を消すだけではございません。特定の地域にのみ蔓延し、治癒魔法が効きにくく、人々の心身を内側からゆっくりと衰弱させる、特殊な『呪いの病』を生み出すことも可能です」
老婆の狙いは、ルディアに原因不明の病を流行らせることだった。
病は、人々の間に不安と疑心暗鬼を生む。隣の獣人が病を運んできたのではないか「他国からの移住者が原因だ」──そんな噂が広まれば、カイが心血を注いで築き上げた多様性という名の絆は、いとも容易く崩壊する。
「民が苦しみ、仲間同士が憎しみ合う様を、あの若き領主はただ見ていることしかできない。まだ経験も少ないあの男は、到底領主の器ではございません。民の病一つ救えぬ無力さを、骨の髄まで思い知ることでしょう。これ以上の屈辱はございますまい」
その悪魔的な提案に、ジェイルの口元が愉悦に歪んだ。
「……面白い。カイ=アークフェルドが民に見捨てられ、絶望する顔が目に浮かぶ。……よし、その策を許可しよう。存分に、あの理想郷を、病と不信の地獄に変えてやるがよい」
◇◇◇
一方、帝都郊外のとある貴族の屋敷。
亡命したアルブレヒト辺境伯の旧友である、穏健派のリーダー格、ゲルハルト公爵は苦渋に満ちた表情で集まった同志たちを見渡していた。
「……聞いたか。皇子殿下は、あの得体のしれぬ吟遊詩人の進言を容れ、またしても正道から外れた策を講じようとしておられるらしい」
「このままでは、帝国は自滅する。いや、その前に、皇子殿下の手によってただのテロ国家に成り下がってしまう」
「我ら古き良き帝国は、どこへ行ってしまったのだ……」
彼らは、ジェイルの暴走とそれをそそのかす「還し手」に強い危機感を抱いていた。
「もはや、帝国の内側から変革を待つ時間はないのかもしれん」
ゲルハルト公爵は、意を決したように言った。
「あのルディアの若き領主……カイ=アークフェルドと、何らかの形で繋がる道を探るべきだ。我らが生き残るためには、あるいは、帝国を真に救うためには……それしかない」
◇◇◇
その頃、ルディアは平和そのものだった。
俺は、ミレイやフィオナと共に、「ルディア留学制度」で新たにやってきた、十数名の留学生たちを笑顔で出迎えていた。
「ようこそ、ルディアへ! ここでは、身分も出身も関係ない。思う存分学び、そして、楽しんでいってくれ!」
俺の歓迎の言葉に、留学生たちは、緊張した面持ちの中にも、期待に満ちた笑みを浮かべた。
その一団の中に、顔色が悪く、時折乾いた咳を必死に押し殺している青年が数名混じっていた。
俺は長旅の疲れだろうと思った。その些細な兆候に、気づくことすらなかった。
帝国の放った見えざる毒は、ルディアの土を確かに踏んだのだった。