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57 消えゆく記憶、消えない傷跡

 ルディアは、束の間の平穏を謳歌していた。

 だが、その水面下では音もなく、しかし確実に毒が回り始めていた。

 始まりは些細なことだった。


「そういえば、新しく工房に入ったっていうあの口数の少ない職人、最近見ねぇなぁ」

「ああ、あいつか。確か故郷に急用ができたとかで、数日前に帰ったらしいぞ」

「へえ、挨拶もなしか。薄情な奴だなぁ」


 そんな、ありふれた日常会話。

 だが、その「いなくなった者」の顔を誰も思い出せない。どんな声で、どんな話をしていたのか、まるで霞がかかったように記憶が曖昧になっている。

 初めは、街の拡大に伴う人の流動の一つだと思われていた。

 しかし、その「神隠し」はじわじわとその数を増やしていった。

 その異常さに、俺とミレイだけが気づき始めていた。


「カイ様、やはりおかしいです。この一週間で、住民台帳から七名もの名が理由もなく抹消されています。彼らの移住記録は確かにあるのに、周囲誰に聞いても『そんな人間は知らない』と……」


 ミレイが青ざめた顔で報告する。

 俺は、この不気味な現象の極秘調査をラズ・シェルカに命じた。シェルカには森や街道の物理的な痕跡を、ラズには街の隅々に張り巡らされた彼自身の情報網を駆使して、失踪者たちの「記憶」の痕跡を追わせた。


 数日後、ラズはまるで亡霊のような顔で執務室に現れた。

 その顔には、いつものリラックスした笑みは一片もなく、代わりに古傷をえぐられたような深い苦悩の色が浮かんでいる。


「……旦那、こいつはやべぇ」

 

 彼は調査報告書を机に叩きつけると、椅子にどさりと身体を沈めた。


「失踪した連中の関係者を片っ端から洗った。だが、誰も何も覚えちゃいねえ。家族ですら『そういえば、そんな名前のやつもいたような……』だ。痕跡が綺麗に消えすぎている。まるで最初から、この世界に存在しなかったみたいに、記憶から消されてやがる」


 その言葉に、俺は背筋が凍るのを感じた。

 だが、ラズの様子はただ事態の異常さに怯えているだけではなかった。その瞳の奥には、個人的な深い恐怖が渦巻いていた。


「……昔、似たようなことがあった」


 ぽつりと、彼は独り言のように語り始めた。


   ◇◇◇


 ──薄暗い、王都の裏路地。まだ十代だった頃のラズ。彼には、血は繋がっていないが妹のような存在がいた。二人で肩を寄せ合い、盗みを働き、生きるために必死だった日々。彼女の笑顔だけが、彼の唯一の救いだった。

 だがある日、彼女は忽然と姿を消した。置き手紙一つなく、まるで朝霧のように。

 ラズは、狂ったように彼女を探した。昨日まで彼女と笑い合っていたはずの市場の商人や、近所の住人たちに片っ端から聞いて回った。

 だが、誰もが怪訝な顔でこう言った。


「お前さん、一人じゃなかったかい? 妹なんて、初めて聞いたよ」と。


 世界から、彼女の存在だけが綺麗に消し去られていた。

 たった一人、ラズの記憶の中にだけ彼女の笑顔を残して。

 世界から拒絶されるような孤独と、自分の記憶すら疑ってしまうほどの恐怖。それが、彼の心の最も深い場所に、今も癒えない傷として残っている。


   ◇◇◇


「……また、これかよ」


 ラズは苦々しく吐き捨てた。震えた声で。


「旦那、こいつはただの失踪事件じゃねぇ。誰かが、人の『記憶』そのものを喰ってやがる」


 普段の彼からは想像もできない、真に迫ったその言葉に俺は息を呑んだ。

 その瞬間だった。


「──その通りです、ラズ様」


 その声は、俺の頭の中ではなく部屋そのものに響いた。

 その甘くて憂いを帯びた声に、俺はすぐに誰だか気づいた。


「急に出てくるのやめてくれよ……」


 レイナは構わずに話を続けた。


「この事件の犯人は、帝国のスパイなどという生易しいものではありません。むしろ……我々がルディアを発展させていくうえで、最大の障壁となりうる組織です」


 その言葉に、俺とラズは息を呑んだ。

 

「その名は、『大地の還し手』。かつて、大地の女神アレア様に仕え、その声を聴くことができた唯一の神官の一族。それが、彼らの始まりです」

「女神の、神官? なのに、なんで今こんなことを……」


 ラズが訝しげに問う。


「歪んでしまったのです。彼らの信仰は」


 レイナの声に、深い悲しみの色が滲んだ。


「アレア様が世界から姿を消した時、彼らはその原因を『不完全な人間が世界を乱したせいだ』と曲解した。そして、こう結論付けたのです。『女神の聖なる力は、穢れた人間が持つべきではない。それは、女神自身に還されるべきである』と」

「……なんだ、そりゃ。ただの独りよがりじゃねえか」

「ええ。ですが、彼らはそれを正義と信じている。そして、アレア様の力の残滓を色濃く受け継いでしまったカイ様を、彼らは『最も不純な器』とみなし、その力を奪い取ることを至上の目的としています」


 俺はごくりと唾を飲んだ。つまり、俺はヤバいカルト教団の教義のど真ん中にいる、というわけか。

 

「ラズ様が過去に経験された悲劇も、この街で起きている『神隠し』も、彼らの仕業。彼らは、自分たちの教義の邪魔になる者を、記憶ごと消し去る『忘却の旋律』という術を使います。そうして歴史の影で、女神の力を監視し、管理してきたのです」

「じゃあ、その『還し手』とやらは、今どこにいるんだ!?」


 ラズが怒りを滲ませた声で問う。

 レイナは、窓の外……活気に満ちたルディアの街並みに、静かに視線を向けた。


「今も、この街にいます。それも、誰からも疑われることのない、完璧な擬態をして」

「なんだと!?」

「皆様も一度は目にしているはずです。祭りの折、他国からの留学生たちに古い伝承を語り聞かせていた、あの吟遊詩人の老婆。彼女こそ『還し手』がルディアに送り込んだ、最も危険な工作員の一人です」


 吟遊詩人の老婆……!

 俺は、脳裏にあの人の良さそうな老婆の顔を思い浮かべ、背筋を凍らせた。風流な人がルディアに来てくれたのだと少し嬉しく思っていた程度で、まったく気にかけていなかった。

 あの穏やかな笑みの裏に、そんな恐ろしい企みが隠されていたとは。


「彼女の狙いは、ルディアの民を一人ずつ消し去り、貴方を孤立させ、その心を絶望で満たすこと。そして貴方の心を折らせ、自ら力を手放すように仕向けることなのです」


 くっそ……国家なんかよりも宗教のほうが何倍も厄介だぞ?奴らは「自分らのため」じゃなく「世界のため」になると本気で信じているから、相手のことなんて全く考えない。目的のためなら帝国以上に非人道的な手段も使ってくるはずだ。

 それに、国と違って宗教ってのは勢力の分布が不透明だ。どこに信者が潜んでいるかわからない。


 レイナは俺の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「ですが、もう彼らの好きにはさせません。カイ様、ラズ様。この戦いは、私にとっても他人事ではないのですから」


 俺はラズの肩を強く掴んだ。彼の震えが俺の手にも伝わってくる。


「ラズ、ありがとう。……お前が、その痛みをずっと忘れずにいてくれたおかげで、俺たちは敵の本当の恐ろしさに気づくことができたんだ。いなくなっちまった妹さんにまた会うために、頑張ろうぜ。きっと、まだどこかにいる」


 俺の言葉に、ラズは驚いたように顔を上げた。その目にじわりと涙が滲む。


「……旦那」

「お前の過去の精算も、俺が一緒に背負ってやる」


 部屋の隅で神々しく佇む女神と、長年の呪縛から解き放たれようとしている友を見比べ、鋼のような決意を込めて言った。


「あのクソババアに、人の記憶と絆を弄んだことを、死ぬほど後悔させてやろうぜ。俺らは、国家や宗教にすら負けない、往生際の悪い集団だろ?」


 ラズは震える手で涙を拭うと、いつものようにニヤリと笑った。

 

「……へっ、面白ぇ。女神様にもカルト教団にも、貸しを作っちまった見てえだな。こいつは高くつきそうだぜ」


 見えざる敵との、記憶を巡る戦い。

 その幕開けは、運命の女神の再臨という、あまりに劇的な形で告げられたのだった。

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