55 枕元の女神と、説明責任
祭りの後の心地よい疲労感に包まれ、俺は久しぶりに深い眠りに落ちていた。
夢うつつの中、誰かが優しく肩を揺さぶるのを感じる。心地よい微睡みの中で、ふわりと花の密のような甘い香りが鼻をくすぐった。ミナか、リゼットあたりが朝食でも持ってきたのだろうか。
「んん……あと、五分……」
寝返りを打とうとした、その時だった。
耳元で、鈴を転がすような、しかし聞き覚えのある、あの声が囁いた。
「あらあら、カイ様は朝が弱いのですね。ふふ、そういうところも可愛らしいです」
「はっ……!?」
その声に、俺の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
脳内直通のはずの声が、物理的に耳から聞こえる!?
俺は勢いよく飛び起きた。
そして、目の前の光景に、完全に固まった。
ベッドの脇に、一人の女性が優雅に腰かけて微笑んでいた。
月光を溶かし込んだかのような、流れる白銀の髪。慈愛とほんの少しの悪戯っぽさを湛えた、金色の瞳。服装は、神話に出てくる女神が着ているような、純白のドレスだ。
その顔立ちは、俺が転生する前に見たあの少女の面影を残している。だが、明らかに違う。少女というよりは、十代後半から二十歳くらいの、完璧に成熟した神々しいまでの美貌をたたえた女性へと成長していた。
「……だ、誰だ!?」
俺が絞り出した声は、情けないほど上ずっていた。不法侵入だ!ザルクを呼ばないと!
「まあ、ひどい。一晩で私のことをお忘れになったのですか?」
女性は、くすくすと楽しそうに笑いながら、俺の頬にそっと指を伸ばした。その感触は、確かに現実のものだった。
「その声……その話し方……まさか、レイナ?」
「はい。ようやく、おわかりになりましたか」
彼女――レイナは、こくりと頷いた。
「れ、レイナ!? なんでここに!? いや、そもそもなんで実体化してるんだ!? ていうか、なんか見た目大人になってないか!?」
俺の頭は、完全にキャパシティオーバーだった。質問が、次から次へと溢れ出してくる。
「昨夜、少々、野暮用ができましたので。この地に降り立つ必要があったのです。見た目については……まあ、神も成長するということで」
レイナは、悪戯っぽく片目をつぶる。
いや、そういう問題じゃない! なぜ女神が、俺の部屋に、朝っぱらから、いる!
「おい、昨夜の野暮用ってのは……」
俺がレイナを問い詰めようとしたその時だった。
コン、コン、と控えめなノックの音。
「カイ、起きているか? 朝の報告に……」
返事をする間もなく、扉が開き、フィオナが入ってきた。
そして、彼女は、目の前の光景を見て、凍りついた。
寝起きのボサボサ頭でベッドに座る俺。
そのすぐ側で、俺に優しく微笑みかける、見知らぬ絶世の美女。
どう見ても、完全に、事後の朝です。本当にありがとうございました。俺の物語はここで……。
「…………」
フィオナの顔から、すうっと血の気が引いていくのがわかった。その手に持っていた報告書の束が、はらりと床に落ちる。
「……カ、カイ……?」
彼女の声は、か細く震えていた。
「違う! フィオナ、これは違うんだ! 説明するから!」
「……その、お美しい女性は、どなた、なのだ……?」
フィオナの瞳が、みるみる潤んでいく。今にも、大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。
まずい。これは、人生最大級の修羅場だ。
「あら、おはようございます騎士団長殿。私は運命の……」
「おい言うな!」
レイナが、にっこりと微笑みながら、追い打ちとしか思えない爆弾を投下した。
「運命の……人……」
フィオナの顔が絶望に染まった。彼女はわなわなと震えながら、一歩、また一歩と後ずさる。
違うんだよ。運命の人じゃなくて、運命の女神だよ。
「そ、そうか……貴殿には、すでに、そのような方が……。すまない……邪魔を、した……」
「待て、フィオナ! 行くな! 話を聞いてくれ!」
俺の必死の叫びも虚しく、フィオナは半泣きのまま部屋を飛び出していってしまった。
ガッシャーン! と、廊下から、彼女が何かにぶつかって盛大に転んだ音が聞こえてくる。大丈夫か、あいつ。
「終わった……」
俺は、頭を抱えて、ベッドに突っ伏した。
一方、元凶である女神様は、涼しい顔で紅茶(どこから出したんだよ)を一口すすると、優雅に呟いた。
「ふふ、可愛らしいお方ですね、これはなかなか骨が折れそうですが……やりがいがありそうです」
「お前のせいだろおおおおおおおおおおっ!!!」
俺の絶叫が、ルディア本庁の静かな朝に、虚しく響き渡った。
帝国の脅威よりも何よりも、まず先に俺はこの国で最も厄介な恋愛の戦場に放り込まれたことを悟った。
フィオナが半泣きで部屋を飛び出していってから、約一時間後。
本庁の会議室には、俺の知る限りルディアで最も重苦しい空気が漂っていた。
円卓を囲むのは、俺と、俺の隣で「私が元凶です」とでも言いたげな涼しい顔でお茶をすするレイナ。
そして、その向かい側。
目を真っ赤に腫らし、時折「うっ……」と嗚咽を漏らしながらも、騎士としての威厳を必死に保とうとしているフィオナ。
「旦那、一体何やらかしたんだ」と呆れ顔のザルクとラズ。
「これは一体、どういう状況なの……?」と純粋に困惑している、朝食担当のミナとミリア。
「あらあら、面白くなってきましたわね」と、何故か状況を楽しんでいるリゼット。
胃が痛い……。覚悟を決め、俺は口を開いた。
「えー、まず、皆の誤解を解いておきたいんだが……俺と、この、えーっと……」
「レイナと申します。皆様、はじめまして」
レイナが、完璧な淑女のお辞儀をしてみせる。その神々しいまでの美しさに、ミナとミリアが「わぁ…」と感嘆の声を漏らした。やめてくれ、話がややこしくなる。
「そう、レイナとは、断じてそういうやましい関係ではない! これは、誓って言える!」
「では、どのようなご関係で?」
フィオナが、ハンカチで目元を押さえながら、震える声で問う。その問いは、もはや尋問だった。
「彼女は……その、なんだ。俺がこの世界に来る時から、色々と世話になっている、まあ、その……女神、なんだ」
「「「……はぁ!?」」」
ザルクとラズの声が、綺麗にハモった。
俺は頭を抱えながら、もう一度、今度はレイナ本人を前にして説明する羽目になった。
俺が転生者であること。彼女が、その転生を司った運命の女神であること。そして時々、脳内に直接話しかけてきて過保護すぎるアドバイスをくれること。
一通り話し終えると、会議室は水を打ったように静まり返っていた。
皆、レイナの顔と俺の顔を交互に見比べている。
「……なるほどね」
その沈黙を破ったのは、意外にも腕を組んで静かにしていたネリアだった。
「どうりで、あんたのやることは時々、人間業じゃないと思ってたんだ。もちろん人生が二回目だからってのもあるとも思うけど、一人の人間にしては異常に世界を俯瞰して見ている。それは、この女神様とやらが助言をしてくれていたわけか」
ネリアは、納得したように深く頷いた。彼女の現実的な視点が、この突拍子もない状況に、妙な説得力を与える。
「まあ、そういうことになるな……」
「……つまり、カイ殿。貴殿は、常に女神様と『脳内で』逢瀬を重ねていた、と……?」
フィオナの口から、とんでもない解釈が飛び出した。
「逢瀬じゃない! 会話な!」
「カイ様とお話できるのは、私の特権ですから」
レイナが、にっこり微笑んで油を注ぐ。
「……では、問おう」フィオナが、疑念に満ちた目で、しかし先ほどより冷静にレイナを見据える。
「貴殿は、我々の戦いに、どこまで干渉していたのだ?」
「あら、ご興味がおありですか?」レイナは、楽しそうに目を細めた。
「では、少しだけ種明かしをしましょう。例えば、あの忌まわしい『偽の密約書』が見つかった時のことです」
「!」
「あの日、あの書状がザルク様の部下の目に『偶然』留まるように、ほんの少しだけ、運命の風を吹かせておきました。帝国が仕掛けた罠に、皆様がいち早く気付けるように」
「なんだと……?」
ザルクが目を見開く。ていうか、それは俺も初耳なんだけど?
「ええ。もちろん、その後のカイ様の華麗な対応は、全て皆様ご自身の実力です。私はただ、そのための『きっかけ』をほんの少しだけ早くお届けしたに過ぎません」
レイナは続ける。今度は、リオンが滞在していた時のことを思い出すかのように。
「それと、シレジアの使者のリオン様がこの地を訪れた時も。彼が、カイ様の本当の価値を見抜き、心を動かされる『決定的な一言』を、カイ様が最適なタイミングで口にできるよう、運命の旋律を少しだけ奏でておきました」
何言ってるの?
「なっ……!」
フィオナは深くため息をついた。その表情は、もはや怒りや羞恥ではなく、人知を超えた存在を前にした、純粋な畏怖と少しの呆れが混じっていた。
「……つまり、貴殿は、我々が重要な岐路に立つたびに、常に最善の選択ができるよう、水面下で運命を操作していた、と。そういうことか」
ラズが、頭をガシガシと掻きながら言った。
「……つまり、なんだ。旦那の奇跡みたいな大逆転劇の裏には、大体この女神様の、超絶ハイスペックなアシストがあったってことか……」
「そういうことです」
レイナが、胸を張って言い切った。
「まあ、俺にとってレイナは頼れるアドバイザーってわけだ。たまに鬱陶しいけど」
「一言多いですね」
レイナがムスッとする。今までは声だけだったので、こういう表情が見れるのは正直面白い。
しかし、フィオナとどうやって仲直りするか……きっと、まだ完全に納得してはいないだろう。部屋にいたことの説明はしてないし。
照れくさいけど……一緒に出かける、とかやってみるか……?