52 夜明けの誓い
意識が、深い海の底からゆっくりと浮上していく感覚。
最初に感じたのは、自分の頬を撫でる、温かい布の感触だった。次に、薬草の混じった、リゼットの部屋の匂い。そして、すぐ側で聞こえる、静かな寝息。
俺は、重い瞼を、ゆっくりと持ち上げた。
ぼやけた視界の中に、見慣れた天井が映る。
俺は、本庁の医務室で眠っていたらしい。
身体を起こそうとして、全身を襲う鉛のような倦怠感に、思わず呻き声が漏れた。魔力を暴走させた代償は、想像以上に大きかった。
「……気がついたか」
すぐそばから、聞き慣れた声がした。
見ると、椅子の背もたれに背中を預けたまま、フィオナがこちらを見ていた。その綺麗な顔には深い疲労の色が浮かび、鎧ではなく普段着姿になっていた。彼女は、俺が眠っている間、ずっとここで付き添っていてくれたのだろう。
「……俺は、どのくらい……」
「丸一日だ。貴殿は、丸一日眠り続けていた」
フィオナは、水の入ったカップを差し出しながら、静かに言った。その瞳には、安堵と、そして深い悲しみが同居していた。
あの夜の出来事が、悪夢ではなかったことを、その瞳が物語っていた。
「そうか……」
俺は、力なくそれを受け取り、乾いた喉を潤した。
そうだ。俺は、友を失い、怒りに我を忘れ、そして――仲間に止められたのだ。
「……フィオナ、あの時はごめん。あと……ありがとう。君がいなければ、俺は本当に、戻れないところまで行っていた」
心からの感謝と、謝罪の言葉。
それを聞いたフィオナは、静かに首を横に振った。
「礼を言う必要も、謝る必要もない。私はただ、信じていただけだ。貴殿が、憎しみに呑まれるような、弱い男ではないと」
フィオナはゆっくりと立ち上がり、俺のそばで屈んだ。
「……貴殿が、無事でよかった。貴殿がいない生活など、もう、私には想像ができない」
彼女は、そっと俺の手に、自分の手を重ねた。その手は、剣士のものとは思えないほど、温かかった。
その温もりに、堪えていた感情が、再び込み上げてきそうになるのを、俺は必死でこらえた。
領主が、いつまでも泣いているわけにはいかない。
その後、ザルクが、ラズが、シェルカが、代わる代わる医務室を訪れ、俺に声をかけてくれた。
誰も、俺の暴走を責めなかった。
ザルクは「次からは、その怒りは俺たちに預けろ」と不器用に頭を掻き、ラズは「たまには暴走する領主様ってのも、人間味があっていいんじゃねえの」と軽口を叩いて、場の空気を和ませてくれた。
彼らの優しさが、今は何よりも、心に沁みた。
体力が回復した俺が、最初に向かったのは、変わり果てた街の姿をその目に焼き付けることだった。
仲間たちは止めようとしたが、俺は静かに首を振った。
領主として、この惨状から目を背けるわけにはいかない。
かつて、活気ある槌音が響いていた工房地区は、黒い残骸と鉄の匂いが立ち込める、ただの瓦礫の山と化していた。ラズやデリンたちが築き上げてきた、未来への希望が、一夜にして灰燼に帰したのだ。
そして、学び舎のあった場所へ。
そこは、もっと酷かった。
半壊した建物、焼け焦げた教科書、そして、子供たちが作ったであろう、煤けた紙の花飾りが、風に虚しく揺れている。
ここで、笑い声が響いていた。ここで、未来への夢が語られていた。
そして、ここで、トモは死んだ。
「……」
言葉が出なかった。
胸の奥から、冷たい絶望が、じわじわと這い上がってくる。
何が「盤石な国づくり」だ。何が「俺がいなくても大丈夫な国」だ。
結局、俺は何も守れなかったじゃないか。
帝国のたった一度の気まぐれで、俺たちが積み上げてきたものは、こんなにもあっけなく、無残に破壊される。
もう、やめようか。
領主なんて、国づくりなんて、俺には荷が重すぎたんだ。
どこか、誰もいない場所へ行って、静かに畑でも耕して……。
──そんな、諦めの感情が心を支配しかけた、その時だった。
瓦礫の隙間に、一冊の本が挟まっているのが見えた。
表紙は焼け焦げ、ページは水で濡れて波打っている。だが、そのタイトルは、かろうじて読み取ることができた。
『あたらしいせかいの、ものがたり』
トモが、子供たちのために、手作りしていた絵本だ。
俺は、吸い寄せられるように、その絵本を手に取った。
震える指で、ページをめくる。
そこには、拙いながらも、温かい絵が描かれていた。
様々な種族が、手を取り合い、笑い合って、一つの大きな家を建てる物語。
最後のページは、まだ白紙だった。
だが、その余白に、鉛筆で薄く、下書きのような言葉が残されていた。
『みんなでつくったこのまちは、せかいいちやさしいひかりで、かがやきました。めでたし、めでたし』
その文字を見た瞬間、涙腺が、壊れた。
ぼろぼろと、大粒の涙が、絵本の上に落ちて、インクを滲ませていく。
ごめん、トモ。
ごめんな。
俺は、お前が信じてくれた未来を、諦めようとしていた。
俺は、絵本を胸に強く抱きしめた。
まだ、物語は終わっていない。
トモが描こうとした、この最後のページを、俺たちの手で完成させなければならない。
絶望している暇なんて、ない。
俺は涙を腕で乱暴に拭うと、瓦礫の山の中から、空を見上げた。
「……フィオナ」
いつの間にか、背後に立っていた彼女に、俺は振り返らずに言った。
「祭りは、中止しない」
「……カイ?」
「いや……中止どころか、もっと盛大にやる。この、瓦礫の上で」
俺の声は、震えていた。だが、そこにはもう、絶望の色はなかった。
それは、友の遺志を継ぎ、地獄の底から這い上がることを決意した、一人の領主の、産声だった。
「友」と「トモ」ってややこしいですね。
どちらもあまり意味としては変わりませんのでお気になさらず!