48 海からの風
「勘違い、とは?」
リオンの笑顔が、初めて微かに揺らいだ。彼の計算の中に、俺からの即答での拒絶はなかったのだろう。
「あんたは、俺たちを『非力な赤子』だと言った。確かに、生まれたばかりの国だ。まぁ本当は国でもないんだけどな。だがな、赤子ってのは、無限の可能性を秘めているものだ。今日の価値が、明日の価値と同じだとは限らない」
俺は机に両肘をつき、身を乗り出した。今度は、俺が彼を値踏みする番だ。
「独占交易、ね。聞こえはいい。だが、それは俺たちの未来の価値を、今の時点の『資金』と『安全』で買い叩こうという話だ。前世で言うところの、悪質なM&Aみたいなもんだな」
「エムアンドエー?」
リオンが、初めて聞く言葉に眉をひそめる。
「まあ、こっちの話だ。要するに、あんたたちの提案は、短期的には魅力的だが、長期的には俺たちをあんたたちの属国にするための、巧妙な罠だ。違うか?」
俺の指摘に、リオンの目から笑みが完全に消えた。代わりに、そこには交渉相手を認めた、真剣な光が宿る。
「……参りました。そこまで見抜かれていたとは。カイ殿、貴殿はただの理想家ではない。冷徹な経営者としての顔もお持ちのようだ」
「理想を現実にするためには、足元を固める必要がある。それだけのことさ」
リオンは一度天を仰いでから、深く息を吐いた。そして、先程までの作ったような笑顔ではなく、どこか吹っ切れたような、人間味のある笑みを浮かべた。
「……正直に言いましょう。ええ、その通りです。我々シレジアは、貴国を経済的に支配し、帝国への新たなカウンターとして利用するつもりでした。それが、我らにとって最も利益の大きい道ですから」
彼は、自らの掌の内をあっさりと明かした。それは、俺との交渉が、もはや小手先の駆け引きでどうにかなるレベルではないと悟ったからだろう。この男、切り替えが早い。そして、負けを認める潔さがある。
これは……信用できる。
「だが、その上で、改めて提案したい。我々は、貴国と本気で手を組みたい。帝国の横暴は、我々商人にとっても看過できない。自由な交易を脅かす最大の癌です。共に、あの傲慢な帝国を出し抜くための、本当の『パートナー』にはなれませんか?」
今度の彼の言葉には、嘘はなかった。それは、一人の商人として、そしてシレジアという国を背負う者としての、本気の言葉だった。
「パートナー、か。いい響きだ」
俺は、彼に一つの提案を持ちかけた。
「なら、こうしよう。独占契約じゃない。『優先交渉権』だ。俺たちが新たな産物や技術を生み出した時、最初に取引の交渉をするのは、シレジア。あんたたちが公正な価格を提示する限り、俺たちはその取引に応じる。だが、もしあんたたちが不当に買い叩こうとするなら、俺たちは他の国と取引する権利を持つ。対等な関係ってのは、そういうもんだろ?」
「……優先交渉権。なるほど。我々の優位性は保ちつつ、貴国にも選択の自由が残る。実に、合理的だ」
リオンは、心底感心したように頷いた。
「そして、資金援助の代わりに、技術供与を。あんたたちの持つ最高の『造船技術』と『航海術』を、俺たちの職人に教えてほしい。その代わり、俺たちは、あんたたちの船乗りたちが一年中腹を空かせないだけの、最高の食料を安定供給することを約束する」
「なっ……!」
リオンの目が、大きく見開かれた。
金で支配するのではない。互いの持つ最高の技術と資源を交換し、共に成長していく。それこそが、俺が望む関係だ。
「……貴殿は、恐ろしいお方だ」
リオンはやがて腹の底から笑い出した。
「ただ与えられるのではなく、我々から最大の価値を引き出そうとする。そして、それを『対等』という、最も断りにくい形で提示してくる。……完敗です。ええ、その提案、謹んでお受けしましょう。このリオン=ディーゼル、必ずや評議会を説得し、最高の造船技師をこの地に連れてくることをお約束します」
彼は立ち上がると、俺に向かって深々と頭を下げた。それはもはや、交渉相手への礼ではない。真に認めたパートナーへの、敬意の表れだった。
「あんたみたいな面白い男と仕事ができるなら、多少の損も悪くない」
俺も立ち上がり、彼が差し出した手を、力強く握り返した。
「こちらこそ、よろしく頼む。海の向こうの、頼れるダチ公」
固い握手を交わし、リオンは満足げな、それでいてどこか心地よい疲労を浮かべた表情で椅子に座り直した。これで交渉は終わり、あとは細かい事務手続きだけだろう。彼も、俺も、そう思っていた。
「あ、そうだ。リオン殿」
俺は、今しがた思いついたとでもいうような軽いノリで切り出した。
「実は近々、このルディアで、王都とトウラを交えた三国での会議を開くことになっててな。まあ、表向きは『帝国との和平に向けた準備会議』ってことにしてるんだけど」
「ほう、それはまた……大規模な政治の舞台ですね。さすがはカイ殿、やることが違う」
リオンは感心したように頷く。彼の頭の中では、その会議の結果がシレジアの交易にどう影響するか、高速で計算が始まっているに違いない。
「そこでだ」
俺は、ニッと笑って続けた。
「せっかくだし、あんたも参加したら? シレジアも」
「……はい?」
リオンの爽やかな笑顔が、ピシリ、と音を立てて固まった。
彼の手にしていたティーカップが、カチャリとソーサーの上で震える。
「だから、会議に参加しないかって。王様も獣人の族長も来るんだ。そこに海の国の代表もいれば話が早いだろ? 帝国への圧力も、三国より四国の方が効果はでかいし。なんなら、そのまま四国同盟、組んじまうか?」
俺が、近所の祭りに誘うくらいの気軽さで言うと、リオンは完全に思考が停止したようだった。口を半開きにしたまま、ぱくぱくと動かしている。さっきまでの理知的で抜け目ない交渉人の面影はどこにもない。
「い、いや、しかし……その、我々はつい先ほど、友好関係を結んだばかりで……いきなり、そのような大陸の行く末を左右するような、最高レベルの機密会議に……?」
「大丈夫だって。俺が紹介するから。バルハもアルディア陛下も、話の分かる連中だ。それに、あんたみたいな面白い奴がいたほうが、会議も盛り上がるだろ?」
「もり、あがる……?」
リオンの脳内キャパシティが、明らかに限界を超え始めている。
普段はポーカーフェイスを崩さないネリアですら、隣で「カイの発想は、時として常軌を逸しているな」と、こめかみを押さえながら呟いていた。
「……そ、それはつまり、我がシレジアも、王都やトウラと同格の『盟友』として、この大陸の新たな秩序づくりに参加する権利を、今この場で、与えてくださる、と……?」
リオンの声は、上ずっていた。彼の目には、信じられないという驚愕と、とてつもない好機を前にした商人の興奮が、渦を巻いていた。
「まあ、そんな感じかな? 堅苦しいのは抜きにしてさ。どうせなら、一気にやっちまったほうが、スローライフへの近道だろ?」
「スロー……ライフ……?
もはや、リオンには俺の言葉の半分も理解できていないようだった。
彼は、震える手でティーカップを置くと、椅子から滑り落ちるようにして立ち上がり、俺の前に進み出た。そして、これ以上ないほど深々と、頭を下げた。
「……その、ご提案……謹んで、いえ、我がシレジアの全権を以て、拝受いたしますッ!!」
その声は、裏返っていた。
こうして、当初はルディアを経済的に支配しようとやってきた海の国の使者は、ルディアの規格外のスケールに完全に呑み込まれ、気づけば大陸の歴史を動かす巨大な渦の中心に放り込まれることになったのだった。
「よし、じゃあ会議の席、一つ追加しといてくれ。ミレイ」
「か、かしこまりました……」
ミレイが、若干引きつった顔でメモを取る。
俺たちの国づくりは、またしても俺の思いつき一つで、とんでもない方向へと舵を切ったらしい。
「じゃ、帰る? それとも泊まってく?」
「え、いや、流石に宿泊は想定していませんでしたので……」
「まあまあ、いいじゃん? 俺ももっとリオンとお喋りしたいし」
「……では、お言葉に甘えて……」
リオンは完全にタジタジになっている。完全にこっちのペースだ。
「よし、リゼット、今日の夕飯は豪華に頼むよ!」
「おまかせを!」
リゼットは笑顔で立ち上がった。
「よし……今夜はとある『お楽しみ』もあるわけだし、残った仕事も頑張るかぁ……」