42 帝都の焦燥
王都で打ち上げた「情報」という名の狼煙は、俺たちの想像をはるかに超える速度で広がっていった。
それはただの噂話ではなく、王都グランマリアという大国の正式発表と、複数の新聞社による大々的な報道が、その信憑性を鉄壁のものとしていたからだ。
最初に反応したのは、国境を接する小国や自由都市だった。
これまで帝国の威光に怯え、顔色をうかがうように外交を行ってきた彼らにとって、帝国の失態と「三国同盟」の誕生は、まさに青天の霹靂だった。
「ルディア=アークフェルド連邦、か。帝国の横暴に、初めて『否』を突きつけた街だ」
「領主はカイという若者らしいが、獣人の長と大国の王を動かすとは、ただ者ではないな」
西方の港町ヴェルトニアでは、商人ギルドの会合でそんな会話が交わされた。彼らは目先の利益に聡い。帝国の息のかかった商会との取引を減らし、代わりにルディアとの交易路を模索する動きが、水面下で活発化し始めた。
「アークフェルド産の作物は品質がずば抜けているらしい。それに、あの街には腕の立つ職人が集まっているとか」
「危険な賭けかもしれんが……乗り遅れるよりはマシだ。使者を送ってみるか」
南の山岳地帯に暮らすドワーフの部族からも、意外な形で接触があった。
彼らは頑固で知られ、人間との交流を好まない。だが、ルディアの鍛冶職人デリンが生み出す武具の噂と、トウラとの同盟。「地に根差した者同士の盟約」に、心を動かされたらしい。一人のドワーフの使者が、紹介状もなしにルディアの門を叩き、「おたくらの領主と、鉄の話がしたい」とだけ告げたという。
北の魔法ギルド連盟でも、ルディアの名は注目されていた。
「“創造”のスキル……記録にない、極めて特異な能力だ。彼の地で生まれる技術は、我々の魔法体系に新たな視点をもたらすかもしれん」
魔術師たちは、政治的な駆け引きよりも純粋な知的好奇心に突き動かされていた。何人かの若い研究者が、個人的な興味から「学術調査」の名目でルディアを訪れるようになった。
帝国の影響力は、確かに揺らいでいた。
彼らが築き上げてきた「恐怖による支配」という砂上の城は、ルディアという一石によって、少しずつ崩れ始めていたのだ。
もちろん、全ての国が好意的だったわけではない。
帝国と癒着の深い東方の王国は、公式にルディアを「秩序を乱す蛮族の集まり」と非難した。だが、その声はもはや、負け犬の遠吠えのようにしか聞こえなかった。
◇◇◇
光が、澱んでいた。
バルディア帝国、帝都カレドニア。その心臓部である皇宮の一室は、磨き上げられた黒曜石の床が鈍い光を反射するだけで、窓から差し込むはずの陽光すらも重苦しい空気に飲み込まれているようだった。
玉座に腰かけているのは、皇帝その人ではない。
その息子、若き皇子ジェイル=イゼル。彼は、まるで遊戯に飽いた子供のような退屈そうな表情で、目の前に立つ宰相と将軍たちを見下ろしていた。
「──以上が、王都グランマリア及び周辺諸国の動向です。ルディア=アークフェルド連邦の名は、我らが意図したものとは真逆の形で、英雄譚として大陸に広まっております」
宰相が、冷や汗を滲ませながら報告を終える。その声には、隠しきれない動揺が混じっていた。
ジェイルは、指先で玉座の肘掛けをトン、と軽く叩いた。その小さな音が、静まり返った室内に不気味に響き渡る。
「……つまり、お前たちの仕掛けた『面白い罠』は、見事に裏目に出たと。そういうことか?」
その声は絹のように滑らかだったが、底には氷のような冷たさが宿っていた。
「も、申し訳ございません! あのカイという男の器量と、獣人どもの結束が、我らの想像を……」
「言い訳は聞きたくない」
ジェイルは静かに立ち上がった。深紅の豪奢なマントが、彼の動きに合わせて床を滑る。
「小細工はもう終わりだ。あの忌々しい理想郷ごっこに、現実というものを教えてやる時が来た。奴らの絆が本物だというのなら、その絆では守りきれないほどの『力』で、根こそぎへし折ってやればいい」
彼は窓辺まで歩くと、眼下に広がる帝都の街並みを見下ろした。その横顔には、もはや退屈の色はない。獲物を見つけた捕食者のような、残忍な喜色が浮かんでいた。
「将軍。例の『檻』の準備は?」
「はっ。いつでも。ですが、あれを公に使うのはあまりに危険かと……諸国からの非難は免れませぬ」
「公に使う、などと誰が言った?」
ジェイルは、くつりと喉の奥で笑った。
「事故は、いつでも起こるものだろう? 例えば、ルディアとトウラを結ぶ交易路の近くで、たまたま古代の封印が解けてしまう、とかな」
その言葉に、将軍も宰相も息を呑んだ。彼らが言っている「檻」が、どれほど凶悪な代物であるかを知っているからだ。それは、帝国の負の遺産。禁忌の魔術と錬金術の果てに生み出された、制御不能の破壊兵器。
「ルディアそのものを直接叩く必要はない。奴らの足元を揺さぶるのだ。交易路を断ち、周辺の村を恐怖に陥れ、同盟国に『ルディアと組むことは災厄を呼び込むことだ』と知らしめる。救いの手を差し伸べれば差し伸べるほど、奴らは疲弊し、孤立していく。実に愉快な見世物ではないか」
ジェイルの瞳は、狂気と冷静さが同居した、不気味な輝きを放っていた。
「手筈を整えよ。……遊びの時間は、終わりだ」
その鶴の一声で、帝国の巨大な歯車は、より禍々しく、より直接的な方向へと、ゆっくりと、しかし確実に回り始めた。
ルディアを包む束の間の平穏は、もはや風前の灯火となっていた。
◇◇◇
その報せが、ルディアにもたらされたのは、それから一週間後のことだった。
トウラとの間に新設された定期連絡路を、一頭の伝令獣が血相を変えて駆け抜けてきたのだ。
「緊急報告! トウラへ向かう商隊が、何者かに襲撃されたとの報せ! 生存者の話によれば、相手は『見たこともない鋼の魔獣』だったと!」
本庁に響き渡った斥候の叫びに、俺は執務室を飛び出した。
会議室に駆けつけると、そこにはすでにフィオナとザルク、そしてトウラから連絡官として派遣されていたシェルカが集まっていた。
「状況は!?」
「酷いもんさ」
と、シェルカが苦々しく吐き捨てた。
「商隊はほぼ壊滅。護衛についていたうちの戦士たちも、何人かが深手を負った。相手は一体だけだったらしいが、矢も剣もまるで通じなかったそうだ。鋼の身体に、赤い単眼を持つ、異形の魔獣……そんなもの、この森には存在しない」
「鋼の魔獣……」
フィオナが眉を寄せ、顎に手を当てる。
「まさか……帝国の古代兵器か? 伝説に聞く、魔力で自律駆動するゴーレムの一種。だが、あれは数百年前にすべて破棄されたはず……」
「その『ガラクタ』を、帝国の連中が掘り起こして、おもちゃにしてるってわけか。やってくれるじゃねえか」
ザルクが拳を握りしめ、ギリ、と歯を鳴らした。
間違いなく、帝国の仕業だ。三国同盟への返答が、これだというのか。
「被害は商隊だけか?」
「いや、それが問題なんだ」
シェルカの表情が、さらに険しくなる。
「その『鋼の獣』は、商隊を襲った後、南へ向かった。その先には……人間の小さな開拓村がある。トウラからも、ルディアからも、ちょうど救援が間に合わない、絶妙な位置のな」
俺たちの思考を、冷たいものが貫いた。
狙いは、これだ。
俺たちに「見殺しにする」か、「助けに行って消耗するか」の、二択を迫っている。そして、どちらを選んだとしても、三国同盟の威信には傷がつく。
「……ふざけやがって」
俺の口から、自分でも驚くほど低い声が漏れた。
椅子を蹴るように立ち上がる。
「行くぞ。フィオナ、ザルク、シェルカ。精鋭を数名ずつ集めろ。これ以上、奴らの好きにはさせん」
「待て、カイ。冷静になれ」
フィオナが俺の肩を掴んだ。
「これは罠だ。我々を誘き出すための……」
「わかってる。わかってるさ。だがな、フィオナ。目の前で助けを求めている人間がいるのに、罠かもしれないからって見捨てるのが、俺たちのやり方か?」
俺は、フィオナの目を真っ直ぐに見返した。
「理念だけじゃ民は守れない、か。その通りだ。だがな、守るべき理念を捨てた瞬間に、俺たちがこの街を築いた意味がなくなる。……俺は、行く」
俺の覚悟を感じ取ったのか、フィオナはゆっくりと手を離した。その顔には、諦めと、そして共に戦う者としての決意が浮かんでいた。
ザルクが、ニヤリと口の端を吊り上げる。
「そうこなくっちゃな、旦那。ようやく退屈な平和が終わりそうだ」
「まったく、あんたって人は……」
シェルカはやれやれと首を振りながらも、その瞳は狩人のそれに変わっていた。
「後悔させないでよね、カイ。この落とし前は、きっちり帝国につけさせるんだから」
作戦は、即座に決定された。
俺たち四人と、それぞれの部下から選抜した十数名。総勢二十名に満たない少数精鋭の部隊で、問題の開拓村へと急行する。
ユランの背に飛び乗り、俺は仲間たちを見渡した。
「いいか、今回の目的は、あくまで村民の救助と、敵戦力の把握だ。深追いはするな。……だが、俺たちの牙を舐めた連中には、相応の報いを受けさせてやる」
俺の言葉に、仲間たちが雄叫びで応える。
帝国の仕掛けた、より直接的で、より悪辣なゲーム。
その盤上へ、俺たちは今、自ら駒を進める。