41 歴史は、ここに刻まれた
熊も狼もひれ伏すというトウラの酒は、噂に違わぬ破壊力だった。
翌朝、俺が強烈な二日酔いと戦いながら目を覚ました時、トウラの議事堂は昨夜の狂乱が嘘のように静まり返っていた。床は掃き清められ、中央の炉には新たな火がくべられている。その静寂さが、逆にこれから始まることの重大さを物語っていた。
議事堂には、俺、フィオナ、そしてバルハの三名だけが集まっていた。他の仲間たちは、それぞれの持ち場で情報整理や今後の行動計画の立案にあたっている。
「……さて、カイ殿。昨夜の策、実に痛快だったが、実行するには王国へ向かう必要がある。その役目、誰に任せる?」
バルハが、まるで昨夜の酔いが嘘だったかのような鋭い眼光で俺に問うた。
「俺が行く。この件は、俺自身の言葉で王に伝え、協力を仰ぐのが筋だ。それに、新聞社に情報を流すにしても、信憑性を担保するには俺という『当事者』がいる方がいい」
「危険だ」
フィオナが即座に口を挟んだ。「帝国は、貴殿がトウラと接触することを阻止しようとした。ならば、王都へ向かう道もまた、安全とは言えん。奴らは必ず次の手を打ってくる」
「だからこそ、だ」
この言葉は、俺の受け売りである。茨の道の先にこそ、見たことのない景色がある。
「だからこそ、バルハ。あんたにも同行してもらいたい」
「……正気か、カイ殿。トウラの長である私が、人間の王都に姿を現す。それは、歴史を揺るがす一大事だぞ。歓迎される保証など、どこにもない」
「歓迎させるんだよ。俺と、フィオナ率いる王都騎士団、そしてトウラの長であるあんたが、共に王の前に立つ。帝国が仕掛けた稚拙な罠を打ち破り、種族を超えた固い絆で結ばれた『三国』の代表として、な」
俺の言葉に、議事堂の空気が震えた。
三国――ルディア、王都グランマリア、そしてトウラ。
それはもはや、ただの防衛協定や友好関係ではない。帝国という共通の敵に対し、政治、軍事、経済のすべてにおいて手を取り合う、対等な同盟。
「帝国の策謀は、皮肉にも俺たちに最高の口実を与えてくれた。この一件を逆手に取り、俺たちは世界に向けて高らかに宣言するんだ。『我らは、帝国の脅威に屈しない。種族の壁を越え、新たな時代の同盟を結ぶ』と。そうなれば、帝国は国際的に完全に孤立する。下手に手を出せば、世界中を敵に回すことになるだろう」
バルハは、しばらく黙り込んでいた。その巨躯から放たれる威圧感が、思考の深さを物語っている。やがて、彼は重々しく口を開いた。
「……面白い。その絵図、まさに荒唐無稽。だが、それ故に心を揺さぶられる。貴殿は、ただの領主ではないな。時代の奔流を自ら創り出そうとする、稀代の革命家だ」
彼はゆっくりと立ち上がり、その身にまとう威厳は、まさに一国の王のそれだった。
「まあ、正式にはルディアもトウラも国ではないけど、いいよな?」
「うむ」
バルハは頷いた。
「よかろう。その途方もない賭け、このバルハ、乗った。我が身一つで、歴史の証人となり、また当事者となってやろう。トウラの未来、そして獣人すべての未来を、貴殿のその度胸に賭ける」
その決断の重さに、フィオナが深く息を吐いた。
「……話が、大きくなりすぎている。だが、これが成功すれば、帝国の野望を挫くための、これ以上ない一手となる。王も、きっとこの謁見を望むはずだ」
こうして、作戦は最終段階へと移行した。
トウラからは、バルハと護衛としてゴウラン、シェルカが同行。ルディアからは俺と、橋渡しとしてのフィオナ。総勢五名という少数精鋭で、秘密裏に王都を目指す。ラズとザルクは、帝国の追手を警戒し、陽動と情報撹乱のために別ルートで動くことになった。
出発は、三日後と決まった。
その間、俺たちは帝国への反撃の布石を打ち続けた。ラズが持つ裏のルートを使い、王都の信頼できる商人に連絡を取らせ、新聞社への地ならしを依頼する。内容は伏せつつも、「帝国のスキャンダルに関する特大スクープがある」とだけ匂わせた。
そして、出発の朝。
トウラの民は、静かに俺たちを見送った。昨日までの喧騒はなく、誰もが固唾をのんで、自分たちの長の歴史的な旅立ちを見守っていた。
「行ってくる」
バルハが短く告げると、獣人たちから地の底から湧き上がるような雄叫びが上がった。それは、不安を振り払うための、そして未来を託すための、力強い祈りの声だった。
道中は、帝国の執拗な追跡をかわしながらの、熾烈な旅となった。斥候部隊との小競り合い、巧妙に仕掛けられた罠。だが、ゴウランの圧倒的な突破力、シェルカの森を知り尽くした隠密行動、そしてフィオナの的確な指揮が、すべての困難を打ち破っていく。
そして一週間後。
俺たちは、ついに王都グランマリアの巨大な城門の前に立っていた。
事前にフィオナから連絡を受けた王都側は、最高位の儀仗兵を並べ、俺たちを迎えた。人間の兵士と、屈強な獣人の長が並んで王都の門をくぐる。その光景に、道行く人々は誰もが足を止め、歴史的な瞬間を呆然と見つめていた。
玉座の間。
国王アルディナは、玉座から静かに俺たちを見下ろしていた。その灰色の瞳には、驚きと、そして深い興味の色が浮かんでいる。
「……まさか、トウラの長自らが、この場に立つ日が来ようとはな。カイ=アークフェルド、貴殿は一体、いくつの奇跡を起こせば気が済むのだ」
俺は、バルハとフィオナと共に、王の前で深く一礼した。
「陛下。我らは、ただの使者として来たのではありません」
顔を上げ、俺ははっきりと告げた。
「帝国という共通の脅威に対し、ルディア、トウラ、そして王都グランマリア、三国が手を取り合う盟約を結ぶために、参上いたしました」
その言葉に、玉座の間にいたすべての貴族、すべての側近が息を呑んだ。
アルディナは、しばらく沈黙していたが、やがてその口元に、満足げな笑みを浮かべた。
「……面白い。実に面白い。その話、詳しく聞かせてもらおうか」
これは……もらった。
その後、玉座の間での会談は驚くほどスムーズに進んだ。
俺が帝国の卑劣な策謀と、それを乗り越えた我々の絆を語ると、国王アルディナは終始楽しげに頷いていた。バルハが獣人の長としての誇りと決意を述べると、王は深く感銘を受けた様子で、その場で同盟の締結を快諾した。
「よかろう! ルディア、トウラ、そしてグランマリア。本日この時をもって、三国は対等な盟友として、帝国の脅威に共に立ち向かうことをここに宣言する!」
王の宣言に、玉座の間は割れんばかりの拍手に包まれた。当然、貴族評議会の連中は渋い顔をしていたが、もはや時代の流れを止められはしない。
その日の午後には、王都の新聞各社に、ラズが仕込んでおいた情報が一斉にリークされた。
翌朝、王都の街角には「帝国、卑劣な罠で同盟破壊を目論むも失敗!」「カイ、バルハ、アルディナ、歴史的会談! 三国の絆は揺るがず!」といった見出しの号外が舞い、民衆は熱狂した。帝国の威信は地に落ち、逆に俺たちの名は英雄譚のように語り継がれることとなった。
三国同盟の正式な調印式は、その三日後、王城の「暁の間」で執り行われた。
俺、バルハ、そして国王アルディナが、金ペンで盟約書に署名する。その歴史的瞬間を、各国の外交官や新聞記者が固唾を飲んで見守っていた。
「この情報は他国にも広まっていくはずだ。帝国は著しく評価を下げ、我々への信頼は高まるだろう」
アルディナの言葉に、俺とバルハは力強く頷き、固い握手を交わした。
帝国の策謀は、皮肉にも、世界地図を塗り替えるほどの強固な絆を生み出したのだ。
王都での目的を果たした俺たちは、意気揚々とルディアへの帰路についた。
背後で、王都の鐘が新たな時代の幕開けを告げるかのように、高らかに鳴り響いていた。