37 悪魔
収穫祭の熱狂から三日が過ぎた。
街は祭りの後片付けも終わり、どこか心地よい疲労感と、満たされた空気に包まれていた。広場の隅では、まだ子供たちが祭りの真似事をして笑い声を上げている。誰もが、あの日の幸福な記憶を胸に、新たな日常へと戻りつつあった。
俺自身も、山積みの書類仕事に追われながらも、心は軽かった。領主としての仕事は増える一方だが、あの笑顔と歓声が何よりの報酬だ。
そんな穏やかな午後を、一本の報告が静かに引き裂いた。
「カイ、ちょっといいか」
本庁の執務室の扉をノックもそこそこに開けたのは、ザルクだった。その顔にはいつもの自信に満ちた笑みはなく、眉間に深い皺が刻まれている。ただならぬ気配に、俺は手にしていたペンを置いた。
「どうした、何か問題でも?」
「……問題というか、厄介なもんを見つけちまった」
彼は懐から、革でできた小さな巻物を無言で取り出し、俺の机の上に置いた。封蝋はすでに割られている。簡素だが、上質な羊皮紙が使われていた。
「昨日の夜、警備隊の若いのが見回りの途中で拾ったらしい。街の外れ、トウラへ続く森の入口近くだ。明らかに誰かが『わざと』落としていったような、妙な落ち方だったんでな」
「中身は?」
「読んだ。だが、俺の口から言うより、あんた自身の目で確かめてもらったほうがいい」
ザルクの声は、絞り出すように低い。俺はごくりと唾を飲み込み、その羊皮紙を手に取った。
そこに書かれていたのは、流麗な、しかし見慣れない筆跡だった。内容は、まるで何かの取引を記録した密約書のようだった。
「──盟約に基づき、ルディアの内部情報を提供。見返りとして、我がトウラの一族の安全を保障し、将来的な自治権の拡大を約束されたし。時期が来れば、内外より呼応し、カイ=アークフェルドの首を獲る手筈とす──」
その文末には、虎の爪を模した、見覚えのある印章が押されていた。
トウラの領主、バルハの印だ。
そして、宛名には「バルディア帝国軍務卿殿」と記されていた。
「……何だ、これ」
声が、掠れた。
頭が真っ白になる。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、指先から急速に血の気が引いていくのを感じた。
バルハが、帝国と繋がっている?
あの誇り高い獣人たちの長が、俺を裏切り、この街を帝国に売り渡そうとしている?
ありえない。
そう断じたいのに、この羊皮紙が放つリアリティが、俺の思考を鈍らせる。紙の質感、インクの匂い、そして何より、あのバルハの印章。あまりに精巧で、偽物だとは到底思えなかった。
「……偽造、だよな?」
ザルクは重々しく首を横に振った。
「わからねえ。だが、もしこれが本物なら……俺たちはとんでもない舵を懐に入れてたことになる。祭りで浮かれてる間に、喉元に牙を突き立てられてたってわけだ」
「……」
「トウラから来た連中、最近妙にコソコソしてる奴がいたのは確かだ。だが、まさかバルハ本人が裏で手を引いてるとは……」
ザルクの言葉が、俺の胸に突き刺さる。
そうだ、俺は彼らを信じると決めた。獣人も人間も関係なく、手を取り合えると。その理想の象徴が、トウラとの盟約だったはずだ。
それが、すべて偽りだったというのか?
「……他の誰かに、このことは?」
「まだ誰にも。真っ先に旦那に見せるべきだと思った。下手に騒ぎになれば、街にいる獣人たちと人間たちの間で、取り返しのつかねえことになる」
ザルクの判断は正しい。この情報が漏れれば、築き上げてきた信頼関係は一瞬で崩壊する。人間は獣人を疑い、獣人は人間を警戒する。街は内側から腐り、帝国はそれを笑って見ているだけだろう。
それこそが、これを仕掛けた奴の本当の狙いかもしれない。
「……わかった。この件、少し預からせてくれ。俺が調べる。それまで、絶対に他言無用だ」
「了解だ。だが旦那、甘い判断だけはするなよ。あんた一人の問題じゃねえ。この街の全員の命がかかってる」
ザルクはそう言い残し、静かに部屋を出ていった。
一人きりになった執務室で、俺は再び羊皮紙に目を落とす。何度読んでも、そこに書かれた裏切りの文言は変わらない。
俺は椅子に深く沈み込み、頭を抱えた。
「──カイ様」
脳内にレイナの静かな声が響いた。
「レイナ。お前はどう思う?」
「極めて巧妙な罠、とだけ。この書状そのものからは、真偽を判別することは困難です。ですが、このタイミングで、これほどあからさまな形で『見つかる』こと自体が、仕組まれていると考えるのが自然でしょう」
「つまり、俺たちを疑心暗鬼にさせて、自滅させるのが目的……か」
「はい。そして、あなた様が最も心を痛めるやり方を選んできた。信頼を根幹から揺さぶる、最も陰湿な攻撃です」
レイナの言葉は、冷静な分析だった。だが、それが逆に俺の心を抉る。
頭ではわかっている。これは罠の可能性が高い。だが、心のどこかで「万が一」という黒い染みが広がるのを止められない。
あのバルハの、誇りに満ちた目を思い出す。ゴウランの誠実な言葉を、シェルカの気さくな笑顔を。あれが全て、演技だったというのか?
信じたい。だが、領主として、最悪の可能性を無視することはできない。
その日の夕方には、噂は静かに、しかし確実に街を蝕み始めていた。
ザルクが口止めしたにもかかわらず、どこからか情報が漏れたのだ。あるいは、敵が複数のルートで同じ情報を流したのかもしれない。
井戸端では主婦たちが声を潜め、酒場では人間と獣人が互いに距離を置いて座るようになった。昨日まで肩を組んで笑い合っていた者たちが、今は探るような視線を交わしている。
「なあ、聞いたか? トウラの奴ら、やっぱり信用ならねえって話だぜ」
「カイ様は信じてるみたいだけどよ……獣人は所詮、獣人だろ」
そんな声が、俺の耳にも届き始めた。
逆に、獣人たちの居住区画からも、不満の声が聞こえてくる。
「人間どもが我らを疑っている。盟約など、口先だけだったのではないか?」
「カイ殿は我らを信じてくれているはずだ。だが、周りの人間がこれでは……」
夜、俺は本庁の地下にある一室にいた。
重い鉄格子で閉ざされた、尋問用の部屋だ。
目の前の椅子には、例の難民のリーダー格、エルザと名乗っていた青年が静かに座っていた。暗殺未遂の後、彼ら七人は全員拘束し、ここに収監している。
「何の御用でしょうか、カイ殿。我々はただ、安住の地を求めていただけなのですが」
「黙れ、この期に及んで被害者ヅラか」
俺は彼の目の前に、あの密約書を叩きつけた。
「これは、お前たちが仕組んだことか」
エルザは羊皮紙に一瞥をくれると、ふっと自嘲気味に笑った。
「さて、何のことやら」
「とぼけるな。お前たちが帝国の差し金だってことはわかってんだよ」
「何か証拠でも?」
エルザは肩をすくめるだけだ。
埒が明かない。だが、このまま引き下がるわけにはいかない。
俺は立ち上がり、鉄格子の外で待機していたザルクに目配せをした。
「……ザルク。ここからは、お前のやり方でやれ。ただし、命だけは奪うな」
「へっ、待ってました。おい、テメェら。ここからは『お話』の時間だ。たっぷり可愛がってやるから、覚悟しな」
ザルクが部屋に入り、その巨体がエルザの前に影を落とす。エルザの顔から、初めて余裕の色が消えた。
「何を……!」
「お前らが本当のことを話すまで、この尋問は終わらない。もし話さねえなら……俺はあんたらの仲間を一人ずつ、この手で潰していく。それでもいいなら、黙ってな」
ザルクは脅しをかけた。
まあ、領主として、決して褒められたやり方ではないだろう。
だが、今は綺麗事を言っている場合じゃない。
俺はエルザの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「お前たちが黙秘を続けるなら、俺はトウラに対し、盟約の破棄と、宣戦布告をせざるを得なくなる。全面戦争だ。そうなれば、この街にいる獣人も、森にいるお前らの仲間も、どうなるかわからない。それでもいいのか?」
エルザの顔が、みるみる青ざめていく。
彼の任務は、おそらくルディアの内部崩壊だ。全面戦争に発展させ、帝国が介入する大義名分を与えることまでは想定していないはず。
「……カイ=アークフェルド。貴様は……悪魔か」
「どっちでもいい。答えろ。これは、誰の差し金だ?」