１ もう、がんばらなくていいんですよ
──ガタンッ。
オフィスの片隅、深夜二時。黄色がかった蛍光灯の下で、俺はゆっくりと崩れ落ちるように突っ伏していた。
「……あ、れ……？」
目の前が、ぼやけていく。いつもより少しだけ強く感じた心臓の鼓動が、最後の合図だった。
──ああ、やっぱり……。
これ、過労死ってやつか。
俺は当たり前だと思った。睡眠時間が二時間以下の生活をアラサーになっても続ければ、心身ともに限界を迎えるさ。
悲しみもなく、数ミリの安堵感だけを抱きながら俺は目を閉じた。
◇◇◇
次に目を開けた時、俺はどこまでも続く白い空間にいた。
そして目の前には──白銀の髪を腰まで伸ばした少女が、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「ひどい……ひどすぎます。 よくも私の愛しい人を、こんなになるまで……！」
金色の瞳に憤怒の炎を宿らせ、少女は唇を噛み締めている。
……誰？というか、俺のこと？
「あ、あの……」
「あっ、お気づきになりましたか。ようこそ、佐久間遼さん。私はあなたを心から愛する女神です」
さっきまでの怒りはどこへやら、彼女は花が咲くような笑顔で俺の手をぎゅっと握った。
あまりの情報量に、俺は呆然と「女神……」と呟くことしかできない。
「あなたの魂は、あまりにも頑張り屋さんでした。だからもう、休んでほしいのです。誰にも邪魔されず、心の底から」
「……はい」
「つきましては、『もうひとつの世界』に転生していただきます。一つだけ願いをどうぞ。世界の王、大富豪、不老不死、何でも叶えます」
あまりの勢いに気圧されつつも、俺の答えは一つしかなかった。
ずっと心の奥に押し込めていた、たった一つの願い。
「のんびり……静かに、笑って暮らしたい。誰かを急かしたり、誰かに急かされたりしない生活をしたい」
「……それだけで、よろしいのですか？」
女神は少しだけ寂しそうに目を伏せたが、すぐに力強く頷いた。
「わかりました。あなたの願い、この私が完璧に叶えて見せましょう。あなたのスローライフを邪魔するものは、たとえ国家であろうと私が許しません」
彼女はそう宣言すると、俺の胸にそっと手を当てた。
「──あなたの名前は、カイ。大地に根ざし、実りを育て、人々に安らぎを与える者。私の愛を、その身に受けて」
白い空間に、やさしい風が吹く。
「転生した先では、今の記憶は失われます。しかし、いつか必ず思い出す日が訪れます。その時は、またよろしくお願いします。私はずっと、見守っていますので」
「はい……」
「では、もうひとつの世界に送ります」
◇◇◇
──俺は、ゆっくりと目を開けた。
そこは、緑の広がる丘の上だった。風が頬を撫で、空は信じられないほど青い。
俺は衝動のまま、目の前の地面にそっと手を触れた。
その瞬間だった。
俺の手のひらを中心に、色とりどりの花が、まるで魔法のように一斉に咲き乱れたのだ。
「……まじか」
目の前に広がる非現実的な光景と、この身に宿った謎の力。
俺の静かで明るい人生は、ここから始まるらしい。
