106 それぞれの夜明け前
賢者の森を抜けた俺たちの目の前に広がっていたのは、どこまでも続く、穏やかな紺碧の海だった。
ミリスの地図が示す聖地「ティル・ナ・ノグ」は、この海の遥か彼方にあるという。
「やれやれ、ようやく陸路の旅も終わりですな」
リオンが懐から取り出した角笛を吹くと、水平線の彼方からシレジアの最速艦隊が姿を現した。
「お待たせいたしました、皆様。我が船が、約束の地までお届けします」
俺たちは、最後の決戦の地へ向かうため、船上の人となった。
潮風が、これまでの旅で積もった埃と、心の澱を優しく洗い流していくようだ。
その夜。月明かりが甲板を照らす中、仲間たちはそれぞれの思いを胸に、静かな時間を過ごしていた。
船首で俺は一人、近づいてくる聖地の気配を感じていた。
そこに、レイナがそっと隣に立った。
「……カイ様」
「……なんだ、レイナ」
「……もし、もしも、貴方が力を手放すことを選んだら……私は、貴方を転生させた、その罪を……」
「後悔するのか?」
俺の問に、彼女は俯いたまま小さく首を振った。
「いいえ。……後悔はしません。貴方と出会い、共に旅をしたこの時間は、私にとって、五百年間で初めて、本当に意味のある時間でしたから」
彼女は顔を上げた。その瞳には、涙ではなく、全てを受け入れる覚悟を決めた女神の微笑みが浮かんでいた。
「だから、お好きな方を選んでください。私が悲しむのは、貴方が貴方自身の洗濯を、いつか悔やんでしまうことだけです。……私は最後まで、貴方の運命を見届けます」
その、あまりに健気な言葉に俺はただ「ああ」と頷くことしかできなかった。
◇◇◇
船の中央にある訓練用の甲板では、二つの剣が、激しく火花を散らしていた。
フィオナと、ジェイル。
打ち合いを止め、互いに剣を収めると、ジェイルが汗を拭いながら呟いた。
「貴方の剣は、迷いがないな。まるで、守るべきものがはっきりと定まっているようだ」
「……当然だ」
フィオナは月明かりの下、カイのいる船首の方を一瞥すると、少しだけ頬を染めて、しかし凛とした声で言った。
「私は、私の王の剣であると同時に、一人の男を……いや、カイを支える、フィオナ=リースという一人の人間でありたいと願っている」
「……そうか」
ジェイルはその言葉に何かを感じ取ったのか、自嘲気味に笑った。
「守りたいもの、か……ハハッ。俺にもそんなものがあれば、変わってたのかもな……」
「……無いのか? 守りたいものが」
「……よくわからん。昔から自分の意思があまりないのかもしれないな」
「でも、負けを認めてカイと手を組むことを決めたのは貴殿の意思では?」
「思えば、あれが初めて本当に『自分の意思』で決めたことかもしれん」
「立派なものだ。初めての決断で、一番の正解を選ぶとは」
フィオナの狂信っぷりに、ジェイルは苦笑いを浮かべた。
「……そうかもな」
◇◇◇
見張り台の上では、バルハとアルディナが静かに酒を酌み交わしていた。
「まさか、人間の王とこうして同じ船で、同じ敵に向かう日が来るとはな」
「全くだ。数年前まで、毎晩空を見上げては、国の未来を憂うばかりだったというのに」
アルディナは、星空を仰ぎながら言った。
「我がグランマリアも、貴殿ら獣人族に対し、過去多くの過ちを犯してきた。この戦いが終わったら、改めて正式な謝罪と、未来への約束を交わしたい」
「……言葉だけなら、何とでも言えるぞ」
「ああ、知っている。だから、行動で示すまでだ。……カイが、我々に教えてくれたように」
バルハは何も言わず、黙って杯を干した。
二人の王の間に、種族を超えた、確かな敬意が生まれていた。
◇◇◇
後部甲板の、星空の下。
ラズが、デリンが作ってくれた新しい魔導義手の感触を確かめるのように、何度も開閉していた。
そこに、リラが魔導書を片手にふらっと現れる。
「……腕の調子は?」
「最高だぜ。前より強くなったかもしれねえ。……まあ、失くしたもんの痛みは、忘れねえけどな」
ラズは、初めてリラに、リーシャのことを、そして還し手への、個人的で消えることのない憎しみを語った。
「今でも、時々夢に見るんだ……あいつがいなくなった日のことを。今はリーシャも助かって穏やかに暮らしているが、味わった苦しみが消えるわけじゃねぇ」
「……アタシも協力してあげる。あんたのその個人的な復讐が、世界の真理の探求に繋がるなら、それはアタシにとっても『合理的』な投資だからね」
彼女なりの、不器用な励ましの言葉だった。
ラズは、その言葉に少しだけすくわれたように、照れくさそうに笑った。
◇◇◇
すべての仲間たちの覚悟を船首から見届け、俺は自らの心と向き合っていたt。
俺の心は、もう揺らいでいなかった。
流した涙、仲間たちとの絆、そしてこの旅で見てきた全てが、俺に一つの、たった一つの答えを与えてくれていた。
力を手放すか。心を失うか。……ミリスも、星詠導師もそう言った。
でも、もう、迷わない。
腰に差した、フィオナから贈られた剣をそっと握り締めた。
俺が選ぶのは、そのどちらでもない。俺は、俺のままで、俺が望む未来をこの手で創り出す。たとえそれが、神々の理に逆らうことであっても。
その時、水平線の彼方に、霧の中から永遠の黄昏に包まれた伝説の島──聖地「ティル・ナ・ノグ」が、その神秘的な姿を現した。
船上の誰もが、息を呑む。
俺は、その光景を揺るぎない瞳で見据えた。
「……着いたな」
その声には、もう何の迷いもなかった。
「船を降りる前に、みんな俺の話を聞いてくれ」
俺は船首に立ち、仲間たちの顔を見渡した。
「正真正銘、これが還し手との最終決戦だ。想像を絶する過酷な戦いになることは目に見えてる。犠牲者が出るかもしれない、負けるかもしれない、世界が終わるかもしれない。みんなの中にそんな不安があることも知ってる。でも、一つだけ言っておく。俺は前向きな未来しか見据えてない」
俺は語調を強めた。
「最終的に俺がどんな決断をするか、まだ俺も分かっていない。神になったっていい、ただの人間になったっていい。言えることは、今までありがとう……それだけだ」
俺が少し暗い顔をしたことを見逃さず、ラズがすぐに応えた。
「これからもよろしくな、旦那!!」
彼の一声で、全員が声を上げ始める。
「私はいつまでも、主の相棒であり続けます!」
「俺たちが負けるなんてありえませんよ、カイ殿!!」
俺はその温かさに背中を押され、深く頷いた。
「よし、ケリをつけに行くぞ!」
船上の全員が「おう!!!!」と拳を突き上げた。
結末は、誰にもわからない。ただ、どんな結末でも受け入れる準備はできている。




