104 偽りの楽園
嘆きの谷の死闘を乗り越えた俺たちの目の前に広がっていたのは、これまでの荒涼とした風景とはうってかわって、不気味なほどに静かで、美しい森だった。
「賢者の森」。
地図にはそう記されている。
「……おかしいな」
先頭を行くガランが眉をひそめた。
「この森からは、動物の気配が一切しない。風の音すらも……まるで作り物みたいだ」
その言葉を裏付けるように、リラが顔をしかめて呟く。
「……大規模な幻術結界に覆われてる。これも多分還し手の仕業だから、人の記憶に直接干渉してくるタイプね。一歩間違えれば、二度と現実に戻れなくなるわ」
俺たちがゴクリと唾を飲むのと、森の空気がゆらりと歪んだのは、ほぼ同時だった。
最初に、バルハの巨体がぴたりと動きを止めた。
彼の、百戦錬磨の王の顔が、まるで子供のように、驚きと歓喜に見開かれていく。
「……父上……母上……? なぜ、ここに……。おお、そうか、そうであったな。我らは、勝ったのだな……!」
天を仰ぎ、彼が上げたのは歓喜の雄叫び。その瞳に映っているのは、この陰鬱な森ではない。かつて人間に滅ぼされ、彼の心に深い傷として残る故郷の同胞たちが、彼を「英雄」と称え、温かく迎え入れる、栄光の光景。失われたはずの温もりが、彼の魂を優しく包みこんでいく。
「バルハ族長! しっかりしろ!」
ジェイルが叫ぶが、その声もまたすぐに力を失った。
彼の目の前に、厳格なだけだった父帝が、初めて見る優しい笑顔で立っている。
「……よくやったな、ジェイル。お前は、帝国の……俺の誇りだ」
ずっと、ずっと聞きたかった言葉。
そのたった一言が、彼の心の奥底にあった氷の壁を、いとも容易く溶かしていく。彼はその場に膝をつき、子供のように、ただ嗚咽を漏らした。
王たちですら、抗えない。
アルディナもまた、険しい顔を緩ませ、穏やかな表情で虚空を見つめていた。彼の目には、腐敗した貴族も、戦争もない、真に民が笑う、平和なグランマリアの未来が映っているのかもしれない。
そしてその甘い毒は、俺のすぐ隣にいたフィオナの心をも蝕んでいった。
「……カイ」
うっとりした、夢見るような声。
彼女は幸せそうに、俺の腕にそっとその身を寄せた。
「……ああ、ようやく、終わったのだな。これからは、ずっと、二人で……。静かに……」
違う。
俺は、ここにいる。
だが、彼女が見ているのは、領主の責務から解放され、ただ彼女のためだけに微笑む、偽りの俺の姿。
仲間たちが、それぞれの「最も幸福な悪夢」に囚われ、その魂が甘い毒に溶かされていく。
「──なぜ抗うのです?」
静かな声。
森の奥から、一人の神官のような男が現れた。
間違いない。こいつが元凶だ。
その顔には、穏やかな、慈悲に満ちた笑みすら浮かんでいた。
「彼らは今、最も幸福な夢の中にいる。それこそが、我らが与える『救済』なのです」
その言葉と共に、俺の前にも、最強の幻術が仕掛けられた。
目の前に広がるのは、見慣れた日本の住宅街の風景。
チャイムが鳴り、玄関のドアが開く。
「――おかえりなさい、遼」
エプロン姿で微笑むのは、大学時代、俺が焦がれた初恋の人。その手は、小さな子供の手を優しく握っている。
「パパ、おかえりー!」
平凡で、ありきたりで、そして、俺が前世で、喉から手が出るほど欲しかった、温かい家庭の光景。
そうだ。
俺は、ただ、こうなりたかっただけなんだ。
英雄になんて、なりたくなかった。
世界なんて、救いたくなかった。
ただ、誰かと「ただいま」と「おかえり」を言い合える、そんな、ささやかな幸せが……。
「さあ、選びなさい」
神官が、悪魔のように囁く。
「辛い現実と、幸せな夢。貴方が本当に望むものは、どちらですかな?」
俺の意識が、甘い光の中へと沈んでいく。
もう、いいか。
疲れたんだ。
戦うのも、背負うのも……。
その、絶体絶命の瞬間。
俺の脳裏に、これまでの旅路がフラッシュバックした。
血と泥にまみれながら、それでも笑い合い、共に戦ってきた、かけがえのない仲間たちの顔。失われた腕の痛みに耐えながら、それでも俺を「旦那」と呼んでくれる友の顔。そして、未来のために命を落とした、トモの最後の笑顔。
「……黙れ」
そうだ。俺は、もう……。
「もう……普通の幸せは、手に入れなくていいんだよ」
「平凡な幸せが手に入るなら、俺はとっくにそうしてた。でも、今こういう事になってんのは結局……俺がそれを望んだからだ」
俺は、血が滲むほどの力で唇を強く噛み締めた。
そして、目の前の偽りの楽園を睨みつけた。
「幸せな夢を見続けることよりも、辛い現実を一緒に見る方が、俺たちにはお似合いだ!!」
俺は転がっている石を、思い切り神官に投げつけた。
攻撃にすらならないことは分かっている。それでも、この怒りをあいつにぶつけてやりたかった。
「レイナ、行けるか?」
「ええ」
レイナと俺は手を合わせ、内側から幻術結界そのものを、ガラスのように粉砕していく。
バリン、と世界が砕ける音。
夢に囚われていた仲間たちが、はっと我に返る。
彼らの目に映っていたのは、黄金のオーラをその身にまとい、仁王立ちする俺の覚悟に満ちた背中だった。
神官は、信じられないといった顔で後ずさった。
「馬鹿な……! 人間の意志ごときが、神代の幻術を……!」
「お前が敵に回したのは人間だけじゃねぇ、女神もなんだよ! 俺たち二人が手を組めば、できないことなんてねぇ!!」
俺は仲間たちに向かって振り返った。
「……確かに、もっと幸せな世界線はあったかもしんねぇけど、そんな空想に時間を費やすことが、今隣に居てくれる仲間たちに失礼だとは思わねぇのか!!」
「……思わぬ」
神官の回答に、俺はもはや爽快感すら覚えた。
そこまで性根が腐ってるなら、心置きなくボコボコにできる。
「おはよう。──さて、寝起きの悪い夢を見せられた仕返しだ。こいつには、最高の悪夢を見せてやろうぜ」
俺は、悪夢から目を覚ました仲間の顔を見て言った。