102 嘆きの谷の攻防
始まりの図書館を後にし、俺たちの最後の旅は再開された。
ミリスが示した地図は、大陸の常識を覆す道筋を描いていた。空間の歪みを抜け、忘れられた古道を行く。数日の旅路を経て、俺たちはついに、聖地ティル・ナ・ノグへと至る最後の関門にたどり着いた。
切り立った崖が天を突き、その間に蛇行する一本の細い道。
嘆きの谷。
その名が示す通り、谷底から常に、風が岩を削る音がまるで亡霊のすすり泣きのように響き渡っていた。
「……最悪の場所だな」
ラズが、義手の指を動かしながら吐き捨てた。
やはり図書館付近は人が住まないので、環境も過酷なのだろう。
「ああ。ここは守るにも最悪だが、攻めるにはもっと最悪だ。──待ち伏せには、最高の舞台ってわけだ」
俺の言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、シェルカの鋭い声が飛んだ。
「──来たぞ! 上だ!」
やっぱりか。
見上げた瞬間、両側の崖の上が、無数の黒い影が埋め尽くされた。
鳥の仮面をつけた、還し手の戦闘員たち。その数は、千は下らない。
彼らは無言のまま、一斉に弓を番える。
狙いは、この狭い谷底にいる俺たち。逃げ場は……ない。
「おい、袋叩きにされるぞ!!」
「──全軍、我が盾の元へ!!」
その絶望的な状況を打ち破ったのは、グレンの雷のような咆哮だった。
彼は馬から飛び降りると、大地に根を張るようにしてその巨大な盾を構えた。
彼の動きに呼応し、フィオナもまた、その背中を守るように剣を構え、完璧な防御態勢を築く。
「──防御方陣『双頭の鷲』! いかなる攻撃であろうと、我らが二人で受け止める!」
俺の知らないところで、そんな方陣を生み出していたとは。
グレンの指揮のもと、俺たちの前方に、二人の騎士による鋼の壁が創り上げられた。
次の瞬間、空が黒く染まった。
数百の、数千の、呪いが込められた黒い矢の雨が、俺たちに降り注ぐ。
「ぐおおおおおおおおおおおっ!!」
凄まじい衝撃音と、金属が軋む悲鳴。
だが、グレンの巨大な盾が屋の奔流を受け止め、そこから僅かに漏れた矢も、フィオナの神速の剣が寸分違わず弾き返していく。二人の連携は、もはや芸術の域だった。
矢の一本たりとも、後方にいる俺たちには届かなかった。
「すげえ……」
俺は思わず息を呑んだ。
これこそが、エルディンとグランマリアの誇る、最高の盾と剣。
だが、攻撃は崖の上からだけではなかった。
谷の道、その前方からも、地響きを立てて、新たな敵が姿を表す。
還し手の術で改造された、禍々しいオーラを放つ魔獣兵団。その数は、およそ三百。
「感心してる場合じゃないな……」
俺は腕をまくった。
「怯むな、グレン殿! 前方は私が!」
今度はフィオナが叫んだ。
彼女はグレンの盾を足場にするようにして、まるで銀色の閃光のように飛び出す。
神速の剣技が、魔獣の硬い甲殻を紙のように切り裂き、その進軍を食い止めていく。
「私も!!」
リオンが飛び出そうとしたが、俺は彼の腕を強く掴んだ。
「待て、下手に飛び出ると矢をモロに食らうだけだ。我慢しろ」
「カイ殿……」
リオンはなぜか目を輝かせていた。キモい。
「でも旦那、このままじゃジリ貧だ!」
ラズが怒鳴った。
確かに、どこかで反撃を開始しなければここで全滅する。
「──光よ、我らが騎士に力を」
その時、後方で静かに状況を見つめていたアルディナが、その剣を高く掲げた。
王家に伝わる、古代の指揮魔法。
温かい光が、この場の全員を包み込む。
「おおっ……! 力が、みなぎってくる……!
グレンの盾が、黄金の輝きを放ち始める。フィオナの剣速は、もはや目で追うことすらできない領域へと達していた。
王の支援を受け、二人の騎士は、まさに鬼神のごとき働きを見せる。
だが──。
「カイ。このままでは、いずれ押し切られる」
アルディナが呟いた。
そうだ。防衛には成功している。だが、それはあくまで時間を稼いでいるだけ。この膠着状態を打破しなければ、俺たちに未来はない。
俺は、崖の上……敵の本陣があるであろう一点を睨みつけた。
「……ああ、わかってる。反撃の準備はできた。こっからが本番だ。
俺は、隣りにいた二人の怪物に向かって、ニヤリと笑った。
「バルハ、ザルク。──準備はいいか?」
「フン、待ちくたびれたわ」
「ようやく出番かよ、旦那!」
獣の王と、狂戦士が、獰猛な笑みを浮かべた。
俺は、全軍に響き渡る声で叫んだ。
「フィオナ、グレン、アルディナ! あと三十秒、何があってもこの場所を死守しろ!」
「三十秒後、俺たちがこの戦況をひっくり返す!」
俺は脳をフルで回転させ、反撃の作戦を練り上げた。
「バルハとザルクは、グレンとフィオナの背後から飛び出し、魔獣の兵団を正面からぶっ壊せ! レイナは二人に強化魔法を頼む」
「了解しました」
「シェルカとゴウランはレイナの護衛に回れ! 傷一つつけさせるなよ!!」
「「応!!!!」」
俺は深く息を吸った。
「あとは……ユラン、谷の上まで飛べるか?」
「容易い御用でございます」
なんという有能っぷり。
「よし、谷上の小賢しい弓兵たちは俺とユランで全滅させる。作戦開始はルオのくしゃみが合図な!!」
俺は足元にいるルオの鼻をくすぐった。
「……クチュン!」
ルオの歴史上最も意味のあるくしゃみにより、俺たちは反撃の狼煙を上げた。