9話:消えない感触〜綺麗になりたいのに〜
日中、間違えて10話を9話として投稿してしまいました。申し訳ございません。こちらが9話です。
メリルリアが傷つき、病んでいます。
ルディオールは、座り込んだメリルリアをじっと観察する。
すると、メリルリアの若草色の瞳に、激しい怯えと絶望が浮かんでいることが分かった。
普通に考えれば、同意のある男女間の逢瀬でこうはならない。となると、愛しいメリルリアは単に被害者だ。
不謹慎だと分かっているのに、ルディオールはその結論に至って酷く安堵する。同時に、激しい怒りが湧いてきた。
ルディオールは拳を強く握りしめ、つかつかとジョアンに向かって歩いていった。
「確か、ジョアン殿だったか?」
「そうだが、何故私の名前を?」
「当然知っている。妻の元婚約者の名前だからな」
「!?」
驚きに目を見開いたジョアンを眼光鋭く睨みつけ、ルディオールは脚を開き構えた。
そして、一応後のことを考え、ジョアンの顔ではなく鳩尾に、強烈なパンチを叩き込む。
ゴス、という鈍い音と共に、ジョアンの身体は一瞬浮いた後に地面に沈み、ジョアンはえずいた。
「二度と、私の妻に関わらないでもらいたい。
ちょっかいを出す奴は全員殺してしまいたいくらい、私は妻に夢中なのでね」
ルディオールは、射殺しそうな目でジョアンを見据え、脅すように低く言い放った。
地面に蹲りつつ、ジョアンはヒッと息を呑んだ。
「返事は?」
「わ、分かった」
「聞こえない。私の妻に関わるなと言っている。分かったのか?」
「はっ、はい!分かりました!!」
「行け!もう二度と私と妻の前に現れるな」
ルディオールの言葉に、ジョアンは跳ねるように飛び起きた。
そして、鳩尾当たりに手を添えて痛そうにしながら、よろけつつもバルコニーを後にした。
二人きりになった後、ルディオールは、茫然と座り込んでいるメリルリアの側へ来た。
そして、自分が着ていたジャケットを脱ぎ、片膝をついてしゃがみ込み、メリルリアの肩にそっとかけた。
メリルリアはビクリと身を震わせ、何かを訴えかけるようにルディオールを見つめた。
ルディオールは、半ば恐慌状態とも言えるメリルリアに、優しく微笑んでみせた。
「大丈夫だ。君を信じている」
「……!」
「遅くなってすまない。怪我はないか?」
夜風にさらされて冷え切ったメリルリアの肩や背中を、ルディオールの大きなジャケットが覆い隠す。
涙に濡れた若草色の瞳が大きく揺らめいた後、かろうじてコクリと頷いた。
「そうか。やはり、一瞬でも君を一人にすべきではなかった。守ってやれなくてすまない」
メリルリアの側を離れたことを悔いるルディオールに、メリルリアは心も目頭も熱くなった。
あくまでもメリルリアの過去の人が襲ってきただけであって、ルディオールは何も悪くないのに。
ジャケットからは仄かにルディオールの香りがして、安心感のあまり腰が抜けそうになる。
メリルリアは、自分の体をジャケットで包み込むようにして抱きしめた。
「怖かったです」
震えが止まらなくて、真っ青になったメリルリアの声はヨレヨレだ。
ルディオールは痛ましげな顔になり、メリルリアを抱きしめようと手を伸ばす。
しかし、ピタリとその動きを止め、少しの逡巡の後、手を下ろし、メリルリアを気遣うように問うた。
「抱きしめても?もし今、私に触れられるのも怖ければやめておく」
ここは一つ黙って格好良く抱きしめるところなのではありませんか!?と、マリーがいたら思わずツッコミを入れそうな場面だが、真面目で堅物なルディオールはそうはしなかった。
メリルリアはぱちくりと瞬きをして、ルディオールを見た。
すると、つらそうとも心配そうとも言えるような表情を浮かべて、メリルリアの答えをじっと待ってくれていた。
メリルリアは、その気遣いにくしゃりと顔を歪め、ボロボロと涙を零した。
「はい、おねがいします」
弱りきったメリルリアに胸を締め付けられつつ、今度こそルディオールの手は、メリルリアに触れた。
ルディオールは、肩にかけてやった上着越しに、大事そうにメリルリアを抱きしめた。
*****
ルディオールに抱えられるようにしてタウンハウスに帰宅したメリルリアは、侍女マリーにドレスを脱がせてもらって入浴していた。
メリルリアはメイクもヘアセットも落とされ、全身を洗われた後に大人しく湯船に浸かる。
しかし少しの後、どこか虚ろな目で浴槽から出て洗い場へ戻り、ゴシゴシと、何度も何度も石鹸で胸元と右の手の甲を洗い始めた。
次に唇もゴシゴシと石鹸をつけた布で擦り、お湯で流す。
「奥様、もう清潔ですから。そろそろ出ましょう」
マリーは懇願するようにそう言って、メリルリアを止めようとする。
しかしメリルリアは、困ったように笑って拒否する。
「ダメよ。まだ汚いわ」
「そんな……きちんと洗わせていただきました」
「そうね。でも、そうじゃないの。ごめんなさい」
一頻り洗い終わった後、メリルリアはまた湯船に戻る。
そして、暫くぼんやりとしたかと思うとまた洗い場へ戻り、胸と右手と唇を洗う。何度も何度も。
その行為が3回目を迎えた時、マリーはたまらず悲鳴を上げた。
「奥様!もうおやめください。お肌に傷が付いてしまいます」
ついには赤くなり始めた皮膚に、マリーは焦った。
しかしメリルリアはやめない。
どこか虚ろな目で、ゴシゴシゴシゴシと、身体や口周りを洗い続けている。
マリーは、メリルリアの尋常じゃない様子に震えた。
そして、これはただ事ではないと判断し、急いでルディオールのところへ駆けていった。
マリーが出ていった後、メリルリアはより一層、ゴシゴシと強く身体を洗った。
咎める者はもういない。これで思う存分、汚れを落とせると思ったからだ。
(汚い。汚い。汚い。汚い……)
感触が、消えない。
今もまだ、口周りがベタベタしている気がする。
舐め回された唇とそれを拭った右手の甲も、掴まれた乳房も、抱き寄せられた腰も。全部全部、汚い。
(旦那様、ごめんなさい)
ジョアンからされたことを思い出すだけで吐き気がして、メリルリアは、思わず手桶のお湯で口をすすいだ。
口内までは犯されていないが、兎に角、唾液や感触がまだ残っている気がして、気持ちが悪かった。
(どうすれば消えるの?)
洗っても洗っても、感触が消えない。
まだまだ洗い足りない。
メリルリアは虚ろな目で、口周り、胸、右手、腰回りを、泡だらけになりながら順番に洗い続けた。
(綺麗になりたいのに、洗っても洗っても直らない……)
かつてジョアンに捨てられた時、メリルリアは絶望した。
そして、ジョアンに怒りと嫌悪感を持った。
しかし、そこまで極端な男性全般に対しての苦手意識や恐怖心までは抱いていなかったから、婚約破棄の1年後には、別の男性――ルディオールと政略結婚した。
ファーストキスは、結婚式。
ルディオールにして貰った羽のように軽い誓いのキス。
以降、夫となったルディオールにエスコートしもらったり抱きしめられたことはあるが、同衾はおろか口付けもしていない。清い関係のままだ。
しかし今日、ジョアンに強引に口付けられて本能的に分かった。
メリルリアはジョアンを生理的に受け付けない。
ただ、もしもルディオールがあのタイミングで助けに来てくれなければ、自力でジョアンを振りほどくことはできなかっただろうとも思う。
そこまで考えた時、メリルリアは再度吐き気に見舞われた。
今となっては、何故ジョアンと婚約できていたのかわからない。婚約するということは、結婚して同衾するということなのに。
メリルリアは、ただ只管にゴシゴシと身体を洗い続けた。