14話:トラウマ〜妻の過去〜
夢を見た。
ルディオールが、アイリスを大切そうに抱きしめて、優しく微笑みかけて口付ける夢。
メリルリアは、それを少し離れた場所から見ている。
声は出せない。脚も動かせない。
ただ、二人の仲睦まじい様子を見つめるだけの夢。
メリルリアの心にはぽっかりと穴が空いて、どんどんその穴が大きくなる。
気づけばメリルリアの両目からは涙が溢れ、ポタポタと顎から胸元に涙が滴り落ちる。
ただそれだけの夢だった。
メリルリアは、今日も泣きながら目を覚ました。
昨日も一昨日も見たこの夢は、以前も見たことがあった。あの時は、二人の顔が、ジョアンと侯爵令嬢だったけれど。
メリルリアは、窓から差し込んでくる夏の眩しい朝の光の中、私室のベッドに仰向けに寝転んだまま、ぼんやりと天井を見つめる。
そして、零れ落ちる涙をそのままに、今日もまた少しだけ泣いた。
*****
今から2年前――つまり、メリルリアがルディオールに嫁ぐ約1年前に、それは起こった。
メリルリアと同い年の伯爵家の長男であるジョアンは、当時、メリルリアの婚約者だった。
ジョアンは標準体型より少し細身で身分もよく、それなりに整った容姿をしていた。
その結果、昔から女性に好意を寄せられることは多くあり、婚約が決まる前から婚約破棄の時までずっと、ジョアンはいつも複数の女性と親しくしていた。
ジョアンは要領が良く、頭も悪くなかった。
少々自己中心的ではあったが、性格もそこまで悪くなかった。
だからこそ、メリルリアに女主人としての役割を確りと果たしてほしいと言っていたし、メリルリアもその意向を汲んで、婚約者だった3年間、様々なことを学んだ。
メリルリアのささやかな夢は、想い合う夫婦になり、温かな家庭を築くことだった。
けれど、結婚式を半年後に控えた19歳の頃、メリルリアはついに、政略結婚だし、愛人がいるのは珍しくないことなのだから、想い合う夫婦というのは諦めようと思い始めていた。
お互いが唯一でなくても、成り立つ関係があるのかもしれないと。
しかし、丁度その頃、ジョアンと付き合いのあった侯爵令嬢が妊娠する。
この事態に、侯爵家と、二つの伯爵家――ジョアンとメリルリアの家は衝撃を受けた。
特に侯爵家の子女は、自国や他国の王族に嫁ぐ可能性がある家柄である。
処女性を重んじる貴族女子は、そういう教育を施されている筈なのに、一体何故こうなったのかということで、侯爵家の混乱ぶりは憐れなほどであった。
その後ジョアンは、真実の愛に目覚めたのだと夜会で言い放ち、メリルリアを捨てた。
同時に、孕ませた侯爵令嬢を愛しているから、彼女を正妻として娶ると宣言した。
胸とお尻は大きいが、その他の部分は折れそうに華奢な侯爵令嬢の細い腰を、公衆の面前で抱き寄せながら。
ここまででも十分ひどいが、その後も酷かった。
婚約破棄の噂が広がったのは仕方が無いとしても、何故か数日後から、ジョアンがメリルリアに愛想を尽かしたことになっていた。
しかもその主たる理由が、メリルリアが誰にでも股を開くふしだらな女だからだ、ということになっていたのだ。
因みに、そのような事実はない。
むしろ逆で、真面目なメリルリアは、初夜までは嫌だと頑なにジョアンを拒み続けていた。
なお、ジョアンがメリルリアの身体以外に興味を持っていたかどうかは、定かではない。
*****
正妻は自分なのだからと割り切って、アイリスを愛人として受け入れられるだろうかと、メリルリアは自問する。
しかし答えは否で、メリルリアは自分の狭量さに落ち込んだ。
ルディオールが他の誰かを好きになったり、他の誰かを愛人として迎え入れたりすることは耐え難い。
メリルリアは去年のクリスマスに、アーノルドの息子二人を見て、ルディオールが彼らの内どちらかを養子を取るのは嫌だと思った。
その時はルディオールに告白されて済んだけれど、今思えば、もしかしたら、自分にその機会が与えられないことのみならず、別の女性が生んだ子供をルディオールが大切にするというだけでも、少し悔しかったのかもしれない。
(旦那様の言う通りね)
ルディオールはあの時、「君はつまり、私に愛され、私の子を産みたいということだろう?私が他の女に惚れてしまう前提で、嫉妬までして」と言って笑った。
あの時は咄嗟に、何を馬鹿なと思った。そんなはずはないと。
しかし、その通りだったと認めざるを得ない。
(どうしよう……)
これでは、高位貴族の妻としては失格だ。
しかし、何度考えてみても、やはりアイリスの申し出を受け入れるのは嫌だとメリルリアは思った。
その日の昼下がり、メリルリアの執務室にノックの音が響いた。
恐らくマリーかヴィンスだろう。メリルリアは、書類とにらめっこしたまま返事をした。
ドアの開く音がしたが、特に顔を上げなかった。
3日前にルディオールの恋人だと名乗ったアイリスと対面してから、メリルリアは、ずっと気分が晴れない。
余計なことを考えたくない時は、兎に角眠るか、用事なり執務なりをするに限る。
しかし、眠ると悲しい夢を見る。
だからメリルリアは、ここ数日、いつもより速いペースで働いていた。
朝から晩まで、なるべく絶え間なく、集中して執務をこなし続けた。
「メリルリア」
聞こえるはずのない声が聞こえた気がして、メリルリアは不意に顔を上げた。
「ただいま」
にこ、と口元を緩めるルディオールは、数日前に見送った時と変わらず、優しげだ。
メリルリアは驚き、そして、少し目を潤ませた。
しかし、あくまでも平静を装って薄く微笑む。
「おかえりなさいませ、旦那様。お戻りは明日ではありませんでしたか?」
「ああ、そうだ。でも、気になることができたから、急いで馬を駆った」
「そうですか。お疲れでしょう?すぐにお湯と軽食をご用意します」
執務用のデスクから立ち上がったメリルリアに、ルディオールは言う。
「ありがとう。しかし不要だ。先ほど汗は水でざっと流してきた」
「まあ、お水で」
「暑いから問題ない」
言われてみれば確かに、ルディオールは上のボタンをいくつか外した白いシャツに、ゆったりとした黒いズボンを履いている。
こうして近くに立って改めてルディオールを見上げると、黄金色の髪はまだ濡れており、全てかきあげられていた。
「一昨日、ヴィンスから早馬で報告を受けた。先程、直接話も聞いてきた。アイリス嬢の件は、すまない」
そよそよと、開け放たれた窓から乾いた風が流れ込んでくる。
ルディオールの青い目はただ真っ直ぐに、しかし、気遣うようにメリルリアを見つめていた。
メリルリアは、一瞬カチンと固まった後、ゆるりと瞬いて泣きそうな顔で問いかける。
「それは、どういう意味のすまないですか?」
「君が嫌な思いをしただろうと思った」
その通りである。
メリルリアは、黙ってルディオールを見ていた。
「信じてもらえないかもしれないが、あれは私の子ではない。そもそも私は、彼女を知らない」
「……え?」
「経験がないとは言わない。
しかし、君と結婚してから――いや、より正確には、両親を亡くしてから、私は君以外の女性と一度も関係を持っていない。
仮に、私が忘れているだけで、娼館であの女と過去に関係があったとしても、妊娠期間が合わない。
この意味は、わかるな?」
メリルリアは、ハッとしたように目を見開いた。
そして、ルディオールの言葉に頷く。
子は、母親のお腹の中で十月十日育つ。
つまり、ルディオールの言い分が事実ならば、確かにおかしい。
ルディオールがメリルリアと結婚したのは昨年の春、つまり1年数ヶ月前だ。
そして、ルディオールの両親がなくなったのは、更にそれより前の話。
「しかし証拠はない。信じてほしいと言うしかない。すまない」
苦虫を噛み潰したような顔で、ルディオールは言った。




