6話 無駄なカロリー?
三
翌日の夕方六時、希美はJR金町駅に降り立っていた。
初めて訪れる駅、ひいては区だった。
一人暮らしの家は埼玉県の越谷市にある。都心の外れ、という意味では、近しい雰囲気なのかと思っていたが、また異なるようだ。
新鮮な気持ちで、下町情緒残る街並みを見渡す。大きく深呼吸をしていたら、
「おい後輩。店はこっちだ」
ほどよく骨ばった腕が、希美の鞄をぐいっと引いた。思いのほか力強く、方向転換させられる。
「全く。なんで俺がお守り役しなきゃいけないんだよ。残業してまで。無駄なカロリーがすぎる」
恨み言を言ったのは鴨志田だ。
仕方なく、やむを得ず、そんな態度が全面に出ていた。外にも関わらず、反対の手にはなんとクッキーが握られている。
飴でもガムでもなく、プレーンなバニーユだ。バリエーションの豊かさからして、もはや中毒者である。
どっちが子供っぽいんだ。むしろ無駄なエネルギー摂取のしすぎでは? と思うが、口にはしない。
「というか、なんで俺が道案内してるんだ。店の場所は調べてきたんだろ」
「はい、しっかりと! 完璧です!」
希美はスマホを印籠のごとく見せながら、ペースを気にしない鴨志田の隣を大股で歩く。
「よく言うなぁ。昨日はなにも考えずに直行しようとしてただろうが」
「あれは、ちょっと気持ちが先に出ちゃって」
実際、自分に判断が任されていたら、間違いなく一日待つなんて真似はしなかったろう。
希美は、考えるな動け派なのだ。
しかし、「アポイントを取れ」「情報を整理しろ」という鴨志田の忠言は確からしく思えて、最後には聞き入れた。
「少しは感謝しろよ後輩」
「ありがとうございます!」
「返事だけはいいなぁ」
トラックの多い大通りからタイル張りの路地を奥へと進む。
着いたのは、中規模の商店街だった。歴史を感じさせるビニールの軒が連なる中に、目的の店はあった。
周りと比べればことさら新しい。黒く塗った和風の壁に、まだ真っ白なのれんがいいアクセントになっていて、目を引いた。
希美は、スマホで写真を数枚撮る。記録のためだと、鴨志田に指示されたことだった。
「うちの事務所とは大違いですね。ちゃんと新築、羨ましいです」
「あぁ、外観に問題はなさそうだな。後輩。手ブレはしてないか?」
「はいっ、もちろん。じゃあ入りましょうか」
希美は、スマホをスーツスカートのポケットに差し込むと、代わりに名刺入れを引っ張りだす。
少し鼻息が荒くなる。
財務にいたときはほとんど機会がなかったが、使ってみたいと常々思っていたのだ。
しかし、
「それ、一回しまえよ。まずは普通の客のフリをする」
鴨志田は第二ボタンまで緩んでいたネクタイを締め上げながら、意気込む希美を制する。
「……えっそんな騙すようなこといけませんよ!」
「やるんだよ。本部の人間と分かって態度を変えるような店なら、その方が問題だろ」
ことごとく噛み合わないものだな、と希美は思う。
けれど、鴨志田の言葉に毎度妙な説得力があるのもたしかだった。
「いらっしゃいませ! お二人様ですか」
「は、は、はい!」
「では個室にご案内いたします。おタバコは吸われますか?」
「い、いえ大丈夫です!」
仕事帰りの飲み会といった風を装い、店へ入る。
鴨志田には、わざわざ目線の高さを合わされて、演技下手すぎだろ、と手痛い小言をもらった。
奥まった席に通される。
「ではご注文が決まりましたら、お呼びください」
お茶出しなど、一通りの接客を見たところで、鴨志田が名刺を差し出した。
「すいません、本部からの言いつけで少し試させてもらいました。私、ダックダイニングの鴨志田と申します」
希美も慌てて胸ポケットを探る。
ただシャツをぐしゃぐしゃにしているうちに、若い男性店員は「店長呼んできます!」と、焦った様子で個室を飛び出ていった。
制服の背中に施された、ナイフとフォークのプリントが廊下に揺れる。
「醤油が減り気味だなぁ」
鴨志田が姑のようなチェックをしていたところ、席に白の作務衣を着た身長の低い男がやってきた。白髪まじりの髪からして、五十代ごろだろうか。纏う雰囲気に精悍な印象があった。
「あぁ、本当に来ていただいたんですね。私、店長とシェフ長をやらせてもらっている阪口と申します」
今度は無事に名刺交換を済ませる。
阪口の手は、やけに小さな傷痕が多くゴワゴワとしていた。
それに気を取られていたら、鴨志田がこちら側に回った。
「阪口さん。今日はお時間いただき、ありがとうございます」
彼は、にっこりと笑顔を見せる。水飛沫でも飛んできそうなくらいの爽やかさに、希美は大層驚いた。
見事なまでの営業スマイルだった。普段生力を感じない目に、きりっと命の火が灯っている。阪口は、すっかり騙されているようだ。
「うちのバイトの接客はいかがでしたか」
熱の入った声で、希美と鴨志田に聞く。窪んだまぶたの奥、不安そうに瞳が揺れていた。
「文句ないかと思います。あの制服も店に合っていて、とてもよろしいかと」
「それ私も思いました! とくに背中に入ってるロゴが可愛いです! 店員さんもとっても丁寧でした」
二人の言葉によって、阪口は、やっと緊張が和らいだようだ。少し饒舌になる。
「接客はもう一人の社員と、よく指導していますから。味にも自信があるのですが、どうも人が集まらず……」
壁に立てかけていたメニュー表をとると、こちら向きに開いた。
創作和食だけあって、馴染みのない料理名が並んでいた。だが、メインクラスのものには写真が付いているなど、工夫はされている。それに、どれも美味しそうだ。
「ディナーもですが、とくにランチに手こずってるんです。ランチメニューは、本の一番後ろです」
希美は、ページをがしっと掴んでめくる。
まず飛び込んできたのは、「出汁で炊いたご飯お代わり無料!」という売り文句だ。言葉だけで、よだれがわきでた。それに、おかずの方も、定番どころから変わりものまでラインナップされている。価格も千円以内と高すぎることはない。
ぱっと見た限り、悪い点は見当たらないように思えた。
「料理を少し味見させていただいてもいいですか」
鴨志田がまた仮面の笑顔を貼り付けて言う。料理を食べられる? そう理解した途端、
「ぜひ食べたいです!!」
希美は思わず立ち上がってしまった。さすがに恥ずかしくなって、そろりと戻る。
「もちろんです。では少々お待ちください」
阪口は好好爺といった表情になって、退出していった。その足音が遠くにかすれた頃、
「半々だな」と鴨志田は言う。
もう目からは光が消えている。やはり先ほどのは完全なる作りものの真摯さだったのだ。