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52話 砕けた夢の欠片

「昔、私は料理人を目指してたんです。……もっとちゃんと言うと、実家を継げるようになりたくて。それしか見えてなかった。今考えたら、視野が狭いって話なのかもしれませんけど、小さな私にはそれが全部で。お店自体が、広い海みたいだって思ってたんです。

 

 料理屋って、いろんな人がいろんなものを抱えてやって来るじゃないですか。昼間は全然違うところにいる誰かが、その日だけかもしれないけど、ご飯を食べるだけの目的のために一ヶ所へ集まる。それってスペースの大小関係なく、広いなって思って。同じ場所にいるだけで、外の世界と繋がってるんですもん」


その空間は今も、希美にしてみればとても広いものだと思っている。


少し逸れた話を、希美は自分で引き戻す。


「とにかくそんなわけで、私は絶対、木原食堂の店主になりたかったんです」


お花屋さんにも、ケーキ屋さんにもならなくていい。ただ家を継げればいい。幼稚園の頃から、『なりたい夢の職業』さえ、ぶれたことはなかった。


それは中学生へと上がり、アンケートが『進路調査票』へと形を変えても、同じことだった。


高校の進路調査表は、一年生の頃から全て『就職』の欄に丸をつけた。普通は進学を勧める先生も、希美にはなにも言ってこなかった。


それは傍目に見ても、決して無謀ではなく、手の届く範囲にある夢だったからだろう。


でもそれはある日、突然届かないものへと変わった。伸ばした指の手前、手首にすとんと刃が落ちたからだ。比喩ではなく、実際の話だ。


「私の調子が悪かったわけでもなんでもなかったんです。自分で買った安い包丁だったから、ガタがきてたんだと思います」


包丁がカランカランと床へ落ちて、ドクンドクンと床へ赤色が垂れる。

思い出してしまったら、痒くなってきた。


希美は、ぎゅうっと右手首を握る。

それから決心して、数年ぶりに、Gショックを外した。目立って白い手首が覗く。


封じ込めてきた、夢のカケラと対峙する気分だった。


「大きくて頑丈で耐水性もあって、お風呂でも外さなくていい。傷を隠すにはちょうどよかったんです、これ」

「袖握る癖もそこからきてるんだな」

「……はい。傷を思い出すと弱気になっちゃうので。だから、追い出すようにって」


久しぶりに見た傷の跡は、かなり薄れてきていた。

けれど、トラウマは未だ残っている。


目が覚めると、希美は病院のベッドの上にいた。幸い致命傷になる傷ではなく、診断は、多量出血のショックによる失神。


日帰りで退院をしたのだが、その日から、包丁が握れなくなった。


生活の根幹を揺るがす一大事だった。


その頃の希美は、料理と一緒に生きていたといっても過言ない。自室には、希美専用の冷蔵庫があり調味料棚や盛り付け用の皿まで、自分が使うためだけに所持していた。


「鴨志田さんの言い方を借りるなら、それが私にとっての宝物だったんです」


今日はなにを作ろうか。


冷蔵庫を開けて、材料と相談する時間が楽しくてしかたなかった。


だが、それもこれも包丁を握れないのでは話にならない。


しばらくして両親は、希美から調理器具全てを取り上げた。「触れさせないように」と医者に忠告されたらしいから、きっと粗大ゴミにでも出したのだろう。


親ならば当たり前の対応だ。

だがその当たり前が、希美の目の前を真っ暗にした。


「そんな時に手をのべてくれたのが陸上だったんです。走ってる間は色んなこと忘れられて。やるからには全力で、って。これでも百メートルは県大会まで行ったんですよ」


ただ、逆に言えばそこまでだった。


「陸上をするために、大学進学に進路変更したんです。ボロボロだった偏差値、必死であげて、なんとかそこそこの学校に入学しました。……でも四年になっても、全国の壁は破れませんでした」


そうなれば、どこかへ就職するしかない。


就業場所だけは、東京と決めていた。心機一転! なんて周りには語っていたが、有り体に言えば逃げたかった。

実家は、妹が継ぐことに決まっていた。


悔しくて、彼女が調理場に立つのを、直視できないくらいだったのだ。


会社は正直どこでもよかった。

無名の大学とはいえ一応は経済学部だったから、金融系へと考えていたが、


「求人サイトを見てて、『ダッグダイニング』の方針に感動したんです。店舗じゃなくて、本部。そっか、そんな風なご飯への関わり方もあるんだ! って」


結局、希美は諦めきれていなかったのだ。


傷を負って、封じたはずの夢が、まだそこにはあった。


「面接で言ったんですよ、これ。包丁は使えないんだって話」

「なんで自分から傷掘り返すようなこと」

「それくらい本気だったんです。自分にはトラウマでも人に美談に聞こえて、もし願いが叶うなら、って」


そして無事、希美は入社に至った。

事務職での採用だった。学部を考慮されてだろう。配属されたのは、財務部だった。


普通、スーパーバイザーは店舗を詳しく知る、現場上がりの人間がなるものだ。


規模も小さく、初の試みだったと言う会社の事情がなければ、今の仕事には就けていなかったろう。


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