51話 嫌な感じがしたんだ。
二
研修会は、希美の起こした騒ぎにより、一時中断となった。希美を抜いて、再度執り行われる。人数不足がたたって、終了したのは、夜の八時だった。
遠巻きから放心して眺めるほかできなかったのが、とても歯痒かった。
「すいません、私のせいで遅くなってしまって。お疲れ様でした!」
空元気でしかない挨拶で帰らんとしていたら、鴨志田に襟元を掴まれる。
周りの目も憚らず駐車場まで連れて行かれ、そのまま送ってもらうことになった。
触れられないような扱いをされたくなかった。関係のないことを駄弁り倒しているうちに、越谷のアパートに到着する。
扉の前まで見送られて、
「……なんかあったら言えよ」
「なんにもないですよっ! もう家ですもん」
希美は笑顔を作ってみせる。鴨志田は心許なさそうに瞳を揺らしていたが、それ以上は自重したようだった。
玄関扉を開けて、内側へと入る。
電気をつけると、暗がりに小さなキッチンが浮かびあがった。練習して慣れさえすれば、今日みたく足を引っ張らないで済むかもしれない。
希美は思いついて、その収納引き出しに手をかけた。入居した日、友達が開けてくれて以来のことだった。
希美は、ナイフラックに刺さった包丁を見て、唾を飲む。
カランカラン、ドクンドクン。昼と同じように、張り付いた幻想が希美に襲いくる。それでもどうにか包丁を抜こうとしていたら、チャイムが鳴った。音が余韻になる前に、何度も連打される。
こんな時間に、宅配便でもピンポンダッシュでもないだろう。
「鴨志田さん……」
分かった上で、希美は躊躇した。
今出てしまえば止められてしまうだろう。目を瞑って無視を決めようとしたのだが、
「用心しろよ、後輩。俺だったからよかったものを」
鍵をかけ忘れていたようだ。
上がっていいかと問われ、反射的にこくんと首を縦に振る。靴を脱ぎながら、
「戻ってきてよかったよ。嫌な予感がしたんだ」
心底ほっとしたように、彼が言う。
「私がなにするか分かったんですか」
「あぁ。後輩が扉閉める直前に、キッチンが目に入ったからな。後輩の思考パターンは単純だし。なぁ、後輩」
「……なんでしょうか」
「なにがあった」
すとんと懐に差し込んでくるような言葉だった。
希美が反応できずにいると、鴨志田はストップとばかり手を掲げる。
「あ、いや、いいんだ。忘れてくれ」
たかが三カ月、仮にも職場の人間だし、などとひとりごちた。
希美はつい笑ってしまう。そんな些細なことで、気が楽になった。
「中へどうぞ。大したおもてなしはできませんけど」
「いいよ、そんなの」
鴨志田をリビング兼寝室へと通す。片づけをしていないことに思い至ったが、もう見られていた。
「まじまじ見ないでくださいよ……?」
変なものがないかだけ確かめてから、希美はキッチンでお茶の用意をする。
戻ってくると、鴨志田は鳥籠の前で腰を屈めていた。キャルキャル、ときゅーちゃんが甲高く鳴く。
「文鳥飼ってるんだな」
嬉しくなって名前を教えてやると、鴨志田はほくそ笑む。
「きゅーちゃんって、ずいぶん可愛い名前してるな。こんなに怒ってるのに」
「怒ってるんですか、この子。たしかにいつもと鳴き方が違うような?」
「俺が来たからだろうな。後輩を、パートナーを奪われるとでも思ったんじゃないか」
恥ずかしげもなく、なにを言い出すのだろう、この人は。
「ち、違いますよ! うちの子は緊張しぃなんです!」
「ちなみに、キュウって鳴く時は、求愛してるんだと」
よもやの話に、危うく湯呑みを滑らせそうになった。てっきり、そうとしか鳴かないものだと思っていた。
けれど、そんなことに驚いて、問題を増やしている場合ではない。座布団を用意して、腰を落ち着けてもらった。
いつのまにかローテーブルの上にはクッキーまで用意されている。
「もし話してくれるんなら、したいタイミングでやってくれればいいよ」
鴨志田の優しさに甘え、少し気持ちを整理する。
それから、希美はゆっくりと話を始めた。




