36話 あらぬ噂は広がる
一
あらぬスキャンダル騒動は、鴨志田の耳にも届いていた。
朝の執務室、珍しく早めにやってきたと思ったら、
「いつもはロビーでくつろいでからきてるんだ。けど、今日はどうも人目がな」
こう言って、持参していたスタバのコーヒーを一息に煽る。
「なんで俺が仲川とライバルだとか噂されなきゃいけないんだか」
片肘を突いて、舌打ちを混じらせ、不満たらたらの様子だった。その言い草に、ごく自然発生的に、ぽっと希美の頭には疑問が湧いて出る。
「私とカップルはいいんですね?」
尋ねてから、すぐに口を覆った。
とても恥ずかしい質問をしてしまった気がする。
鴨志田は無言のまま、再びカップを手に取った。覗き込むまでもなく空なのだが、膝下でろくろのように回す。
「それは、ほら、言いようの話だっつの」
誤魔化された気がするが、追及はしなかった。元々、生来の悪癖で口が滑ってしまっただけだ。
「……後輩はどうなんだよ、この状況」
「いいわけないですよ! 私が二股なんて、事実無根もいいところです」
「知ってるよ、そんなこと。俺も当事者なんだから」
「なんでこんな話になったんでしょう? だいたい噂になるようなことなんて一つも……」
考えてみれば、思い当たる節がなくはなかった。希美は、仲川、鴨志田ともに二人きりでご飯へ行っている。
でも、それ以上のことはない。ロマンスとは無縁に、仕事の話をしただけだ。鴨志田は、半目になってニヤっと笑う。
「どうした、後輩。自分のプレイガールっぷりに気づきでもしたか?」
「無実を再確認しただけですっ! だいたいそうだとしたら鴨志田さんは遊ばれたことになるんですよ、私なんかに」
「噂ってのは面白いな、そうか後輩に遊ばれてるのか俺」
真に受けるつもりはないようだ。そこから小さな言い合いに発展していたら、
「朝から痴話喧嘩?」
佐野課長が鼻で笑いつつ出勤してくる。冷ややかな目線が、希美にだけ注がれた。
「全くどうしようもないわね。二股って。節操ないったらないわ」
いつもにまして、刺々しい。原因は明白だが、いわれはない。
「言っときますけど、なにもしてませんから、私」
「それをあなたが言っても、説得力ゼロよ。周りはみんなそう思ってるんだもの」
カーディガンを脱ぎながらも、普段から悪目立ちしているせいだとか、希美への口撃は止まない。
「しょうもないガセネタですよ」
間にいた鴨志田が席ごと後ろに下がり割って入った。
どうやら、希美を守ってくれたようだ。不意のことにとくんと胸を打たれるが、同時に恐怖も覚えた。
低く押さえつけたようなその声音には明白に怒りが含まれていた。佐野課長は少し怯んだように、肥えた唇をぶるりと痙攣らせる。
「で、でもこのままじゃまずいんじゃない? この部署は、いろんな部門と関わるんだから。人からの印象は大事よ」
「……仕事にそんなもの持ち込まれても困ります!」
「さぁ、それは人それぞれでしょ。ま、せいぜい気をつけることね」
佐野課長は勤怠入力だけを済ませると、ぎこちないステップで、ひらひら手を振り出ていく。
人事部近くにある給茶器までの、毎朝恒例のお茶汲みだ。一度行ったら、悠に十分以上は帰ってこないのが通例である。
なんだか、恐ろしいことを言い残された気がする。
「本当に仕事に影響でたらどうしましょう、鴨志田さん……」
「ならないことを祈るしかないなぁ」
「私、弁明に行ったほうがいいんでしょうか」
「ほっとけよ。知らぬ存ぜぬが一番自然に収まるさ」
鴨志田は、まるで何度も経験してきたかのような口ぶりだった。
謎の多い彼のことだ。こうして噂の種になることは過去にもあったのかもしれない。
人間関係の情報に疎い希美は知らないけれど。
「とにかく静観だからな、後輩」
鴨志田はおもむろに立ち上がる。
希美の肩を叩いてから、コーヒー買ってくる、と出口へ向かった。
「さっきも飲んでたじゃないですか」
「クッキーと合わせるつもりだったんだよ、本当は」
「もしかして、動揺してます?」
「……馬鹿いえよ」
鴨志田は素っ気なく残して、歩き出す。
ポケットに手を突っ込んだところから、手帳が落ちた。
彼が愛用している物だ。開いた状態になったせいか音があまり立たず、気づいていないらしい。希美は拾い上げて、ゆるっと大きな背中に名前を呼びかけた。
「鴨志田さん、これ!」
「あぁ、わりぃ。……中見たか?」
「い、いえ、そんな時間なかったですよ」
「ならいいんだ。ありがとうな」
奪われるように、手帳が鴨志田の手に渡る。
つもりこそなかったが、本当は少しだけ目に入ってしまった。開かれたページは、罫線だけが引いてあるメモ紙だった。
鴨志田らしく、その線は無視されていて、真ん中に一文だけ書きつけてあった。
『運のいい奴だけが勝手に宝物を見つける』、と。
前後もなにもない短文だけでは、よく意味が掴めなかった。




