2話 異動先・店舗円滑化推進部は曲者ぞろい?
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四月一日、朝九時、快晴。
外は、春真っ盛りといった陽気だった。
出社するときには、ブラウスの内側が汗ばんで、ついジャケットを脱いでしまったほど。
ほんの先週まで雪が降っていたのを、忘れそうになる暑さだった。
最近は季節の変わり目がはっきりしている。
三月までは冬で、四月からはくっきり春。
それを証明するかのごとく、ここ港区のビル群から少し歩いたところにある日比谷公園では、今日、桜が開花したそうだ。
異常気象のせいなのだろうが、新年度を迎えた今日、桜が咲くというのは、なんだかめでたい。
いい年になる予感がする。
少なくとも、そんな希望を抱いていた。
──ほんの五分前までは。
「うわぁ」思わず、木原希美は感嘆符を漏らす。
下の階から押してきた、荷物の入ったワゴンに乗りかかるように肘をつく。
立ち止まってしまったのは、希美にとっての新しい勤務室前だ。
ただ、目前に広がっているのは、むしろ跡地。そう形容する方が正しそうな、埃まみれの部屋である。
春うららかな外の華々しさとは対称的に、くすみきった光景だった。
会社のゆるキャラ・「ダッグスくん」が描かれたポスターが虚しさを助長する。
犬ではなく、なぜかデフォルトがジト目のアヒルだ。
思い起こされるは、「当日までには綺麗にしとくから」という総務社員の言葉。
ここは昨年度、つまり昨日までは、雑多なものを詰めておく倉庫だった。
前使用者が掃除まで担当するという話だったが、あれは口先だけだったらしい。
希美は、長いため息を一つ吐いて、短い前髪を耳の後ろへかき上げる。
それで、人を責めるのはやめにした。そもそも性に合わないのだ、そういうのは。
よし、と袖を絞って気合を入れる。
これは長年の癖だ。
陸上部にいた時などは、試合のたびにやっていて、よく友達に笑われた。
合図の銃が鳴って、スタートを切る気分。まだ誰もいない「新しい」勤務室に、希美は足を踏み入れた。
デスクとチェアーは、すでに据え付けてあった。
窓からもっとも遠い、めいっぱい廊下側が希美の席だ。
前にいた財務部でも、この位置だった。つまり廊下側=下っ端の席。三年目、今年で二十五になる希美は、新部署でももっとも歳が若い。となれば、掃除も仕事のうちだろう。
自分のデスク下にワゴンを収めると、ホウキと塵取りを両手持ちで掃除にかかる。
身長百六十、手の届かない高いところ以外は、念入りにやった。少しは部屋の見栄えが良くなったのだが、まだなにかが足りない。全体を俯瞰していて、気づいた。
他のフロアでは、すぐにどこの部署かと判別がつくよう、壁に部署名を掲げてあったのだ。希美は、A4のコピー用紙一枚につき一文字、その名前を記し、デカデカと貼り付けてやる。
『店舗円滑化推進部』。
それがこの春に中堅飲食店経営会社『ダッグダイニング』が立ち上げた新部署であり、希美の新規配属先であった。
我ながらなかなかの出来だろう。満足げに見つめていると、
「おー、早いなぁ木原くん。ごめんねぇ色々させて」
「あら部長。いいんですよ、掃除なんて若い子にさせておけば」
続けざまに二人、男女の先輩社員が、ワゴンを転がし入ってきた。
「おはようございます! 木原希美です! 今日からよろしくお願いします!」
早川部長と、佐野課長だ。
一緒に仕事をするのはこれが初めてだが、事前の顔合わせはすでに済んでいたから顔は把握していた。
そして、あまり芳しくはない風聞もだ。
希美はそういった噂にとても疎い。基本的に興味もないのだが、前の部署にはやたらと詳しいお姉さま方(中には定年目前の人もいたが、敬意を込めて一括りにする)がいて、親切にも忠告をくれた。
彼女たちが言うに、『店舗円滑化推進部』は曲者揃いだそうだ。
「私の席は、あぁ、窓際だったな。よかったよ、ガジュマルが育つには最適だな」
まず早川部長は、「セミの抜け殻」。
五十代、男。肩書きのみで、仕事のできない役職者という意味を込めているらしいが……。
シワのいったシャツといい、白髪の混じった薄い髪といい、失礼だがたしかに抜け殻感はある。
「あら、このフロア。コーヒーサーバーはないのね」
佐野課長は、「くっつき虫」。
四十代、女。はっきりした化粧に、太い唇で、目つきがよくない。
命名理由は、とにかくよく喋り、いつも誰かと一緒にいるから、らしい。
思えば今日も早川部長にくっついてきている。古くから勤めていて、今では数少ない、店舗からの異動組だそうだ。
──そして、もう一人、この部署には先輩がいる。
こちらは、お姉さま方の中で、もっとも評判が割れた人物だ。
「すいません。少し遅れました」
ちょうどその人が現れる。「しだれ桜」と評されていたのが、ぱっと思い起こされた。
なるほど、と希美は合点がいく。
ゆるっとパーマがかった前髪、第二ボタンまで開いたシャツに、全開のジャケット。
安物ではない。
早川部長のものと比べるまでもなく質がいい。
身長百七十中盤頃の細身にぴったりフィットしているあたり、オーダーメイドだろうか。それをしなだれさせるように着崩して、なお格好がついているのだ。
切れ長の目に乗せた憂いが、けだるそうな雰囲気を醸していた。だがそれだけではなく、二十八という年齢にそぐわぬような、独特の風格も感じる。
鴨志田蓮、それが彼の名前だ。