12話 うちのホームタウン。
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翌土曜日、希美はまた、葛飾区は金町にいた。
京成線とJR線の間、バスロータリー近くのベンチに腰掛けて、見慣れてきた駅前を見つめる。
だが今日は、スーツではない。大学二年の頃に買って以来そのままの錆び付いたシャツコーデではあるが、私服である。
それに、待っているのもカロリー節約男、もとい鴨志田ではなかった。
ちょうど約束をしていた人が、こちらへ駆けてくる。希美は両手を陽気に上げて彼女を迎えた。そのまま、ハイタッチを交わす。
「ごめん希美! 仕事押しててさ、ちょっと遅れた~!」
彼女は膝に手をつき、息を切らしていた。一つくくりにした金髪が、少し乱れている。
同じ地元、兵庫県西宮市出身の同級生・高瀬春香だ。中高六年間で同じクラスになること三回、気のおけない友人の一人である。
そして彼女こそ、希美が「はれるや」に誘おうと思っていた人物だった。今は、ここ金町の町工場で、建物の塗装職人として修行を積んでいる。
「春香は今日もオシャレやなぁ」
「ありがと。わざわざ着替えてきてよかったわ。見た目だけじゃ、工場勤務ってわからんやろ?」
希美は、深く二度頷いた。
実際、チューブトップにジーンズ姿の彼女は、イケイケの学生にしか見えない。
「じゃあ早めに行こっか。あたし、また昼明けたら仕事戻らなあかんから」
けれど、発言は立派に社会人のものだった。
「ごめんね、ほんと! 忙しい時に邪魔やったかな?」
「ううん。むしろあたしが言い出したことやんか。町紹介とかしてみたかってん! よーし、行くよ! あたしに、ついてこい!」
春香は進行方向、楽しげに指をさす。希美は苦笑しながら、それに従った。
「あそこの店のコロッケは、牛すじが入っててね──」
旧友による、町案内がはじまる。きっかけは、昨晩のことだった。春香が金町に住んでいることを思い出した希美は、一通りの事情を伝えたうえで、こう頼んだ。
『金町のいいところを教えてほしい』、と。
そもそもは鴨志田のアドバイスを起点にした思いつきだった。
彼が言っていたように、この町で生活や仕事をする人相手に商売をするのだ。ならば、町のことをもっと知る必要がある。そう考えたのだ。久しぶりに連絡を取ったこともあった。そこから話は大いに盛り上がっていき、気づけば会う約束をするまでに至っていた。
「なぁ。希美、彼氏できた?」
「おらんよ、そんなの。知っての通りずーっとね」
「やっぱり! 文鳥飼うからやって~。あ。じゃあさ、SNSで募集したら? 炎上しとるんなら今がチャンスやん。誰か見てくれるかもやで」
「嫌やわ、そんな野次馬彼氏! ……だいたい笑える話やないし」
たわいもないガールズトークを交わす。春香は、この手の恋バナが大好物だ。なんの煙も立たないところでも、こうしてつついてくる。
「じゃあ職場とかは? 格好いい先輩とかおらんの?」
ほんの一瞬、鴨志田の顔がよぎった。それをなぎ払うように、希美はぶんぶん首を振る。
「……おらんよ」
「ほんま~? なんか今、さっきより間なかった?」
ゆるゆる手を振る。
本当にない。
サボリ癖さえなければ少しは違ったのかもしれないが、現実の彼はそれに並々ならぬこだわりを持っているのだ。見た目はともかく、むしろ格好悪かろう。
「長い付き合いやねんから誤魔化しても無駄やで~!」
だが、春香は生き生きとして追及してきた。そして、肝心の町案内の方も絶好調だった。
「あ。ここはなぁ、ちょっとした裏道やねん。駅からショートカットできるんよ!」
建物から、道から、なんなら標識まで、あちこちを指差して回る。もはやこの辺一帯のことは、知り尽くしているようだった。
「完全に金町の人間やなぁ、春香も。関西は捨てたん?」
希美が茶化し半分に言うと、むすっとした顔が向けられる。
「ちゃうよ。むしろ西宮が好きやから、ってのもあるぐらい。この辺ってなんとなく西宮に似てるんよ」
「そうかなぁ」
「そうなんよ、これが!」
唐突に語気が強まった。
希美は驚いて、びくっと肩を跳ねさせた。わっと声も出してしまう。春香はそんな希美とは反対に、まったり細めた目を空へ向けていた。その先では、スカイツリーが雲まで届きそうにそびえ立っている。
「……あたしな、どうしても今の職場で働きたくて、東京出てきてんけどさぁ。無理やーって三日で思ってん。見たこともないくらい高いビルに、どこまで行ってもコンクリート。こんなん生活できんやんって」
「分かる。うちも無理やーってたしかに思った!」
なにせ希美が居住地に埼玉県を選んだのは、東京に住むのがなんとなく怖かったからだ。
関西の友人たちに、人が住む場所やない、なんて吹聴されていたのもある。
「やろ? あたし、ほんまに関西帰ろうかなってちょっと迷ったもん。ホームシックやったんやね、たぶん。そんな落ち込んでる時にな、工場の先輩が定食屋に連れて行ってくれてん」
和食屋で、ランチメニューが三品しかないお店だった。そう聞いて、希美はピンとくる。
「もしかして高松屋? 昨日うちも行った!」
「ほんま!? じゃあ、思わんかった? 木原食堂に似てるなぁって」
「まぁ、たしかに店の造りとかは似てたけど……」
「そうやなくて、雰囲気の方。店主のおばあちゃんの優しさが、希美のお母さんみたいでな」
娘の手前だからだろう。歳は違うけど、とあんまり意味のないフォローを入れてから春香は続ける。
「高校の頃さ、よーご飯食べに行ったやん。普段もそうやし、テスト終わりの打ち上げも、いつもさせてもうてた。楽しかったなぁ。ま、希美はいつも点数のことで叱られてたけど」
「もう、春香ってば。それは言わんで」
二十点を切ったテストを握りしめ、赤ら顔で叱る母の顔がありありと浮かぶ。それに連なって、すっかり遠くなった記憶が蘇った。
たしかによく怒られたものだが、決してそればかりではなかった。
狭い店内でクラスのみんなと同じ時間を共有し、笑い合う。キッチンに立ってそれを眺めるのが、希美にとってのなによりの幸せだった。
今、あの空間はどうなっているのだろう。
こちらへ出てきて三年、一度も実家へ帰っていないから全く状況を知らない。妹の美菜が跡継ぎになるため奮闘中だというのを、人づてに聞いたぐらいだ。




