1話 折れた包丁(プロローグ)
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一
近畿一うまい料理屋の店主になる。
それが、木原希美の小さな頃からの夢だった。
希美は、兵庫県西宮市に店を構える『木原食堂』の長女として生まれた。
取り立てて騒ぐほどのものはない、地方によくある小さな食事処だ。
それでも、祖父の代から始めて四十年、地域では長らく愛され続けていた。
幼い頃から希美の生活は、常にこの食堂とともにあった。
両親ともに、朝から店に詰めていたのだ。
希美に覚えはないが、泣いてしまった時には、二つ下の妹と一緒に、常連のお客さんにあやしてもらうこともあったらしい。
物心つく頃にはもう、店の手伝いをしていた。祖父母が引退し、人手が足りなくなっていたのだ。
ちょっとお茶を注ぐだけで、看板娘だなんだとちやほやされて、訪れた人は決まって両親に言う。
「いつかは希美ちゃんが店主だね」、と。
希美は、心底それが嬉しかった。
その言葉はいまだ脳裏に焼き付いている。そうなりたかったし、当たり前になれるものだとも思っていた。
それが一気に暗転したのは、高校二年生の夏。
その頃の希美は、料理の腕を上げようと日々邁進していた。
厨房に立たせてもらえるようにもなって、実力不足を感じていたのだ。
誰かが使っている間、なにもできないのでは困る。自分で調理器具を揃え、誕生日には希美専用の冷蔵庫をねだった。
家族の晩ごはんは希美が用意するのが、当時は決まりになっていた。
その日も希美は、学校から帰るなり、制服姿で家のキッチンに立っていた。
作ろうとしていたのは、食堂での一番人気・豚の生姜焼きだった。
事件が起きたのは、玉ねぎの皮を剥いて、包丁を握っていた時。
前触れもなく、ぽっきりと柄が折れた。
銀色の刃が跳ね上がる。それは希美の腕を深くえぐって、床へと落ちた。
カランカラン軽い音を立てて回る。しばらくあとドクドクと、手首から朱色が滴ってきた。
なにが起きたかわからないうちに、頭が強く揺れ始めて、ブラックアウト。意識がぷつんと切れて、それで全てがおしまいになった。
当たり前であり夢だった未来は、あっけなく霞の向こうへ消えたのだ。
もう手が届くことはないところまで。
だから希美は、大卒後、東京へ出た。変えがたかった夢の、代わりを追って。