第3章 第9話 巳
「巫子っ!」
講堂内にある男子トイレに逃げ込むように入り叫ぶ。今はうちのクラスが演劇をやっているからかとても静かで、俺の叫び声が狭いスペースに反響した。
「史郎……」
そして一番奥の個室から俺の名を呼ぶか細い声が発せられた。
「よかった……無事だな……」
「うん……。何があったの? 犬養さんが私を殺そうとしてるって……」
「……子犬、危ない薬を飲んでる。それで……子犬にそれを渡している奴が、巫子を殺せって言ってるらしい。……やっぱあれだな、人気女優だと危ないファン層がいるっていうか……なんか心当たりあるか? 黒いおじさん、って子犬は言ってたんだけど」
「……はぁ。そこまでくると、もうタイムリミットって感じだね」
自分が顔も知れない誰かに死を望まれているというのはとんでもないストレスだろう。そう思って慎重に話したが、巫子の言葉はおかしい。まるで自分がそうされるのを知っているかのような口ぶりだ。この扉の奥の巫子はどんな表情をしているだろうか。考えるより先に巫子が口を開いた。
「……史郎。今から言うことは、私が君に協力する理由。時間がないから、ちゃんと聞いて」
「それなら……お前の本当の父親……蛇ノ道さんに聞いた。俺とお前……幼馴染だったんだな。だから……」
「違う……そうじゃない!」
「そうじゃ……ないって……?」
「いい!? 本当の狙いは私じゃなくて……」
「巫子」
トイレの扉が突然開かれ、ナイフを取り出し構える。だがそこにいたのはちょうど話が出ていた巫子と血が繋がった父親、蛇ノ道さんだった。
「パパ!? パパなの!?」
「ああ……巫子。無事でよかった」
個室の扉は依然として開かないが、中からうれしそうな声が聞こえてきた。それから少し遅れ、
「巫子、大丈夫か?」
「……お父さん」
巫子の今の父親、杜松さんが入ってきた。これで俺が呼んだ人は全員揃った。これだけ男がいたら、たとえ包丁を持っていたとしても女子の一人くらいは抑え込めるだろう。……最悪俺が、刺されれば。
「……じゃあ僕は、外を見てくる。史郎くん、その犯人の写真はあるかい?」
「あ、はい」
消すことも忘れていた子犬とのツーショットの写真を表示したスマホを蛇ノ道さんに手渡した。それを確認した蛇ノ道さんはスマホを持ちながらトイレを出ていった。さすがに今の父親と一緒の空間にいるのは気まずいのだろう。接触禁止命令も出されているみたいだし。
「それじゃあ猪野くん、詳しい話をしようか」
「……そうですね」
巫子がさっきの話を続けようとはしないので、俺は2人にさっき起きた出来事を詳しく説明する。子犬が何者かであるかも、人の名前なのかも、苗字か名前かであるかも伝えられなかったが、巫子の危機だけは明確に伝えて。
「……なので今は警察が来るまで巫子を守る。それだけを考えましょう」
子犬がここに来る可能性はほぼゼロだが、考えておくに越したことはない。
「もし子犬がその扉を開けてきたら……俺が立ちふさがります。それでも構わず子犬が刺してくるようなら……俺が刺されている間に杜松さんが取り押さえてください。それでも止まらないようなら……俺があいつを刺します。たぶん子犬は俺が相手なら手加減をすると思う。浅く刺したところを……俺が殺す」
もちろん死ぬつもりはない。だが殺すつもりは、ある。そう決意を固めると、杜松さんが口を開いた。
「君がそこまで身体を張る必要はない。盾の役目は大人である私が引き受ける」
「駄目なんですっ! ……子犬を止めるのは……終わらせるのは。あいつのSOSに気づけなかった……俺じゃないと、駄目なんです」
この状況を引き起こしたのは猿原や黒いおじさんとやら。そして何より子犬だ。だがそこには俺も、確実に関わっている。
「俺のせいなんです……。俺がもっとちゃんと、子犬を信じてあげていれば……!」
「責任を唱えるのは立派だ。だがそれは人道の話。人間は生物だ。生物の役目は、生きることだ」
杜松さんは語る。俺の目を見ながら、言い聞かせるように。
「私は昔、外科医だった。多くの命を救ったし、多くの命を取りこぼしてきた。いいか、猪野くん。死んだら終わりなんだ。死ねば何もかもが終わる。反省することも、苦しむことも、幸せになることもできなくなる。何が起ころうと、死ぬことはいけない。君も、犬養さんも。死なないことは前提にして考えよう」
医師をやっていたからか、その言葉の重みは強烈で。殺意を固めていた俺の心が溶けていくのを感じた。
「……お名前聞いてもいいですか」
猿腹の件があったからだろうか。思わずそうお願いしてしまうくらいに、俺の心に深く突き刺さった。
「杜松道彦。名乗るほどの者じゃないけどね」
「いえ……ありがとうございます」
殺さないに越したことはない。死なないに越したことはない。それが、できるなら……。そう思っていた時だった。
「嘘……だろ……!?」
壊れたかのような破壊音と共に、男子トイレに女子生徒が乱入してきた。
「はぁ……はぁ……あはぁ……っ」
ありえない。こんなことは、絶対に。広いとは言えないが、狭いわけがない学校の敷地内のピンポイントに、こんなに早く。誰かが場所を教えたとしか思えないほど、正確に。
「杜松巫子……ここにいるんだよねぇぇぇぇぇええぇぇええぇえぇぇぇええぇぇえっ」
子犬が嗅ぎつけてきた。




