喫煙者の死
「君との契約は、今月いっぱいで打ち切ることにしたよ」
人事部長の小松がいきなりそう告げた。告げた内容に似つかわしくない、にやけた顔をしていた。
「ど、どうしてですか」
渡辺健三は慌てて訊いた。勤務態度に問題はなかったはずだ。営業成績だって……。合点がいかず、身を乗り出して小松を睨んだ。
そんな渡辺に、小松は顔から表情を消し、冷たい声で言った。
「君は、喫煙者なのだろう?」
その言葉に、渡辺は凍り付いた。誰かに告発されたのだ。すぐに察した。そうして、己の迂闊さを呪った。
渡辺はこの半月、仕事のストレスからなのだろう、喫煙の誘惑に抗えなくなっていた。よせばいいのに、会社のトイレで煙草に火をつけた。少しだけ――。肺に煙を深々と吸い込み、吐き出した煙に巻かれて恍惚とした。
喫煙者には受難の時代だった。法で禁止されてはいないものの、喫煙者が堂々と煙草を吸える場は、どこにもないに等しかった。新しい法律のもと、あらゆる公共施設、あらゆる職場が、全面禁煙となった。それどころか、禁煙でない場所は皆無となった。喫煙者でないことを証明できなければ、家を買うことも、借りることも許されなかった。政府は、喫煙者を追いつめ、真綿で首を絞めるようになぶり殺しにしようとしていた。煙草税が上がり、煙草一箱が十万円となっても喫煙を諦めない愚か者を、合法的にこの世から消し去ろうとしていた。
会社を出た渡辺は、これからのことを考えて不安になった。仕事のこともあるが、自由に煙草を吸うことができない今の世の中に絶望し、生きる希望を失った。
不安や絶望感は、大きなストレスとなった。渡辺は再び強い欲求を感じた。一本でいいから、煙草を吸いたい――。一度頭を擡げた欲求は、渡辺に憑りつき、振り払っても振り払っても、彼に纏わりついた。
渡辺は、人気のない路地に入り込んだ。周りを窺い、上着の内ポケットから煙草の箱を取り出した。震える手で、一本を引き抜くと、口に銜えた。
そのとき、背後から声がした。
「おい、おまえ。路上で喫煙するつもりか」
怒声が通りに響いた。びくりとして振り返ると、大学生らしい若者が渡辺を睨みつけていた。振り返ってみて、渡辺は背筋が凍るような恐怖を感じた。若者の目つきを恐れたわけではなかった。若者の声を聞きつけたのだろう、数人の男たちが、渡辺に近づいてくるのを見たからだ。
渡辺は駆けだした。逃げなくては――。必死になって、男たちとは反対の方向へと走った。
「待ちやがれっ!」
男たちの大声が、背後から迫ってきた。渡辺は遮二無二走った。捕まれば、ひどい拷問を受けてしまう。仲間の喫煙者の末路を思い出し、渡辺は、
「いやあっ」
情けなく叫びながら、必死に逃げた。
路上喫煙者に対してはいかなる暴力も許されていた。それが、最近施行された法律だった。この法律には、喫煙の中毒から立ち直った者たちも狂喜した。ストレスを発散させることができる、絶好の機会だったからだ。
やがて、渡辺は男たちに捕らえられた。大通りの真ん中で組み伏せられた渡辺は、殴られ、蹴られ、服をずたずたに引き裂かれた。
男たちの暴行は、いつまでも続いた。周囲に人が集まってきた。皆が、眉をひそめていた。中には、顔を背けて足早にその場を立ち去る者もいた。それでも、彼らは暴行をやめなかった。周囲の者の視線など、気にしていないようだった。周りの者が不快になろうとも、知ったことではないのだろう。彼らは、己の欲求を満たすことしか考えていなかった。
そんな傍若無人な者たちから激しい暴行を受けながら、渡辺はようやく気づいた。
きっとこいつらは、喫煙者だったのだな――。
彼は目を瞑った。自分がしてきたことの罪を贖おうと、暴行を受け続けた。