婚約バキ!!
「お前との婚約を破棄させてもらう!」
言った、ついに言ってしまった。
俺から告げる婚約破棄を。
けっして勢いで言った訳でも無く、俺なりにさんざん悩み考えて、今日、覚悟の末についに口にした。
俺の言葉に城の中は静まりかえる。華やかな舞踏会、しかし、踊る人はピタリと止まり、楽器の弾き手は驚きに固まる。突然、静止するように静まりかえる大広間の中で、着飾る者達が、脅えた目で硬直し俺達に注目する。
「……ほおう?」
城の大広間、貴族達の注目の中、目の前の麗しい女性は片方の眉を上げたまま、口を開く。
「ラップラー王子、今、なんと言われましたか? クックック、よく聞こえなかったので、もう一度、言ってもらえませんか?」
薄く微笑み泰然と俺を見下すように見下ろす女。俺は気圧されまいと目に力を入れ、その女を睨み返す。気を鎮める為に大きく息を吐き、大きく吸い、俺の意志を言葉にして再び告げる。
「ユージェンロ、お前との婚約を、破棄させてもらう」
俺の再度の言葉に、ユージェンロ伯爵令嬢はニタリと獰猛な笑みを浮かべた。まるで獲物を見つけた肉食の獣が牙を見せるように。
青いドレスを纏い、黄金の髪を獅子のたてがみのように流す、傲慢な女、伯爵令嬢ユージェンロの赤い唇が開く。
「ラップラー王子、私は王子の妻となるべく、ありとあらゆる学習、鍛練をこなし、誰よりも王子に相応しい女という自負はあります」
「あぁ、それは解っている」
背の高いユージェンロ伯爵令嬢は不遜に俺を見下ろす。誰よりも気高く、誰よりも強く、誰よりも恐ろしい女傑。その存在を前に背筋が震える。
その金の目の輝きは捕食者の瞳。ユージェンロの前では、誰もが狩られる子ウサギのように怯えてすくむ。
だが俺はこの国の王子。一人の令嬢に怯える姿など人に見せる訳にはいかない。腹に力を入れユージェンロを睨む。
俺の視線を楽しむように、ユージェンロの赤い唇は笑みの形のまま。
「このユージェンロ、王家に嫁ぐ身として相応しくあらんと、これまで努めてまいりましたが」
「……知っている」
伯爵令嬢ユージェンロ、身長は2メートルを越え、全身は分厚い筋肉の鎧に包まれ、身につけた青いドレスは下から盛り上がる筋肉で破裂しそうにも見える。首の筋肉も太く、そこだけで俺の胴回りくらいありそうだ。
腕も足も太く逞しい。人並み外れた体格を、闘う為に極限にまで鍛え上げたその肉体は、戦闘の為に行き着いた人体を完成させたと感じる程に。
人間離れした鋼の肉体、オーガもトロールも裸足で逃げ出すと噂の無敵の令嬢。戦神の化身と呼ばれるユージェンロを前にして肌が粟立つ。
「隣国との戦いでも、私はそれなりに戦働きができたかと思います」
それなりに、どころでは無い。謙遜も過ぎれば嫌味となるが、あれがユージェンロのそれなりならば、全力を出せばいったいどうなるというのか?
宣戦布告も無く奇襲してきたナヤーマ国の軍、その数五万。
突然の侵攻に国境付近の砦が落とされたとき、なぜか、たまたまそこにユージェンロがいた。それがこの日、攻め込んだナヤーマ国にとっては、悪夢のような災厄の日となる。
ユージェンロが何に気がついてそこにいたのか。何の知らせで、まるで軍を待ち受けるようにその日、そこにいたのか。
のちにユージェンロはこの日のことを尋ねられたときに、獰猛に笑ってこう言った。『闘いの気配に呼ばれた』と。
伯爵令嬢ユージェンロはたった一人で五万の軍に突撃し、全て蹴散らした。
一人で五万の軍に打ち勝ったのだ。詳しく言えば、お弁当を運んだメイドを二人連れていたらしいのだが。
ユージェンロはナヤーマ国の猛将イオウを相手に一騎討ちに持ち込み、恐ろしいことに素手でその首を兜ごとねじ切ったという。
拳の一撃で大盾に穴を空け、蹴りの一振りで兵の身体を水風船のように破裂させ、その拳を撃ち込まれた攻城兵器は、無惨に砕け散り残骸に変わる。
たった一人で、わずか半日で、五万の軍を壊滅させ敗走させた。
ついた渾名は戦神の鉄槌。他にも武名はいくつもある。人類最強、人間要塞、一人軍隊、不沈令嬢、戦神の化身。
鍛えすぎたユージェンロの肉体は、ミスリルの大剣すらも、軽い、脆い、と壊してしまう。
そして武器を使えば相手が弱すぎてつまらないとほざく。五万の兵を相手にするときも、鎧も着けず盾も持たず、青いドレスで立ち向かい、戻るときには返り血で赤く染めてお色直しとした。
素手素足で全てを粉砕し、鮮血霧雨、破壊令嬢、一人攻城兵器、寂躍無人、もはや人に敵無しと呼ばれるユージェンロ伯爵令嬢。他国がこのユージェンロ一人を恐れているからこそ、今の我が国の平穏がある。
小首を傾げてユージェンロが言う。
「舞踏の相手が居らずダンスは苦手ですが、あぁ、武闘の相手も、もうこの国にはいませんね」
「……我が国の剣聖に槍聖、腕自慢の者は全てユージェンロに敗北しているのも、知っている」
修練だと次々と道場破りのようなことをして、名だたる勇士をことごとく打ち倒したのが、修業時代のユージェンロだ。
今ではこの国の騎士、名のある剣士でも、ユージェンロに立ち向かう気概のある者は、もはや一人も残っていない。
ユージェンロに敗北し、恥をかかされたと恨む騎士が、馬に乗りユージェンロにランス特攻をかけた瞬間を見たことがある。
馬に乗りランスを構え突撃する騎士に向かい、ユージェンロはつまらなそうに軽く跳び、大きく右腕を振り回した。
ラリアット一発でランスをへし折り、馬の首と騎士の首を二つ宙に飛ばした悪夢のような光景は、今も忘れることができない。
「このユージェンロが王子の妻に相応しくない、と?」
ユージェンロが試すように言う。ユージェンロ伯爵令嬢を我が王家が抱える、これは今の我が国にとって重要な事だ。それは解る。
だが、解るからと言っても納得はできない。
「俺の妻となる者は、俺が見定める」
「なるほど、なるほど。ですがこのように公衆の面前で恥をかかされ、このユージェンロが大人しくするとでも?」
「ならば御託はいらん」
俺もくだらない話をいつまでも続けるつもりは無い。婚約破棄を告げたのは、俺の意思と意地を通す為。口にしたときに覚悟は決めた。
俺は気勢を上げユージェンロへと駆ける。気合いを込め、右の拳をユージェンロの青いドレスの腹部へと打ち込む。
「語るなら拳で語れ!」
「威勢は良いが、非力ですなあ、ラップラー王子」
ぐ? 右手が感じるのは、まるで鋼鉄の盾を殴ったような手応え。これが人間の女の腹筋だというのか? このときの為に鍛えてきた筈の、俺の拳が痛む。
「なるほど、このユージェンロが王子の嫁に相応しいか、御自分で確かめたいと。くく」
ユージェンロの笑みが喜悦で深まる。
「ここ数年、私に挑む者も居らず退屈しておりました。お相手しましょう、王子」
この国で唯一、王族を下に見下すように、王子と口にするのはユージェンロだけだ。ユージェンロの拳が迫る。戦神の鉄槌の渾名を持つ拳、まともに受ければ必死の凶器を、なんとか回避する。
「ほおう?」
俺がユージェンロに勝るとすれば、速度だけだ。ユージェンロの右の拳をかいくぐり打ち込む。右の下段蹴り、左拳のボディーブロー、右の肘打ちのコンビネーション。
だがユージェンロの笑みは止まらず、足の位置も変わらず、小揺るぎもしない。それどころか逆にこちらに、前に出てくる。
「なかなかの技ですな王子。右手だけでお相手するつもりでしたが、これならば左手も使うとしましょうか」
「!侮るな! 全力を見せろユージェンロ!」
「くくく、全力を出せば王子が壊れてしまいますよ?」
一打一打が死神の凶器に見えるユージェンロの拳の連撃。かわして懐に入ろうにも、遊ぶのをやめたユージェンロに隙が見えない。じりじりと押され壁へと追い込まれる。
そうだユージェンロ、本気を出せ。こうで無くてはユージェンロでは無い。
両手を開き獲物を逃がさぬと大きく構えるユージェンロ。
「さあ、追い詰められ、どうします? ラップラー王子?」
「これで追い詰めたつもりか?」
壁を背にユージェンロを見上げる。この女を相手に勝機を得るには、ここしかない。俺を追い詰めたという油断、そこに隙がある。
「図に乗るな、オーガ女」
俺の挑発にユージェンロの笑みが失せる。
「どうやら、死にたいようですな、王子!」
剛腕一閃、破城槌の如きユージェンロの拳、戦神の鉄槌が唸りを上げる。空気が焦げるような錯覚すら感じる恐怖。俺の頭を破裂させる一撃を、その場にしゃがみ回避。その際、伸ばした俺の手でユージェンロの青いドレスを掴み、引く。俺の体重を乗せて、回避しながらしゃがみユージェンロの重心を崩しにかける。
轟音、城の壁を穿つユージェンロの右拳。あまりにも重い衝撃に城が揺れる。
「ほおう?」
俺はそのまま前転、立ち上がりユージェンロの背後に回る。見ればユージェンロの右の拳が壁に埋まっている。上手くいった。俺を侮り油断したのが、ユージェンロ、お前の敗因だ。肘の近くまで壁へとめり込んだ腕はすぐには抜けまい。
今こそ勝機。
「いくぞユージェンロ!」
猫が鼠を弄ぶような、ユージェンロにとっては遊戯のつもりの一戦。
だが、俺は狩られる鼠では無い。その傲慢につけこみ、ここで決める。俺が勝つ。無敵の神話を持つ伯爵令嬢に勝利するのは、このラップラーだ。
全力の連撃を動けぬユージェンロへと叩き込む。掌底、肘、蹴り、幾度も息つく間も無く立て続けに。
「おおおおお!!」
「策を練り、たった一人でこのユージェンロに挑む気概は見事、ですが、」
俺は速さに鋭さには自負がある。それを血を吐く思いで鍛え、今この場に挑む。しかし、ユージェンロの武は俺の想像の、さらにひとつ上にいた。
「いささか、もの足りません」
俺の全力全速のコンビネーションを、ユージェンロは左手ひとつでさばききる。俺の攻撃は何一つまともに当たってはいない。膝を横から狙ったローキックすら、足を軽く上げて脛で柔らかく受け止められる。この、怪物め。
「王子、吹っ飛ぶ覚悟はよろしいか?」
「なに?」
フン、とユージェンロが気合いを入れる。ユージェンロの全身の筋肉が盛り上がり、青いドレスの肩が中から破裂するように裂ける。壁に打ち込んだユージェンロの右の拳、その回りの壁がビシ、ビキ、と不気味な響きを立てる。壁のヒビが音を立てて大きくなる。
「おおお!」
ユージェンロが吠える。壁をまるで砂のように、バキバキと壁を砕きながらユージェンロが右腕を振り回す。壁を割り砕きながらユージェンロが身体を回す。壁から抜けた丸太のような右手が、伸びたまま俺に迫る。豪快過ぎるラリアット。迫る迫力に身がすくむ。かろうじて腕を十字にかざして受ける。
けして受けてはいけない戦神の鉄槌を。
「ぐ、おおお!?」
俺の身体が、冗談のようにふっ飛ぶ。なんだこれは? これが人間の腕力だというのか? 無様にぶっ飛び、ゴロゴロと転がる。
「が、ああ……」
これが、ユージェンロか。頭がクラクラする。腕の感覚が無い。右腕を見れば骨が折れている。これが戦神の化身の本気。いや、本気であれば今頃、俺の頭は腕ごと無くなっていたか。俺が挑んで勝てる相手では無かった。
流石だ、ユージェンロ。悔しいが改めてお前の強さを知った。だからこそ……、
「なかなかに鍛えられていますな、ラップラー王子」
俺は左手を床につくが、身体に力が入らず立ち上がることもできない。ユージェンロがゆっくりと俺に近づいてくる。
「このユージェンロに恥をかかせた非礼の憂さはこれで晴れたとして、ラップラー王子、何故、婚約破棄など? 惚れた女でもできましたか? その女はこのユージェンロよりも王妃になるに相応しいとでも?」
「そんな女が、いるわけ、無いだろう」
震える足に力を込めなんとか立ち上がる。ユージェンロを正面から見据える。
「文武兼ね備え、無敗のユージェンロを越える女など存在するものか」
「ならば何故? 袖にされた者としては理由を聞かせてもらいたいものですな」
ニヤニヤと敗者を見下ろすユージェンロ。くそ、これはユージェンロに勝ってから言うつもりだったのに。
「ユージェンロ、お前に心底、惚れたからだ!」
ユージェンロの笑みが止まる。キョトンとして口が半開きになる。
「はあ?」
「政治の都合での婚約、王族としては当然だろう。だが、一国の王となるものが、女一人に守られるなど。女を盾に隠れるような王に誰が付き従うというのか」
「……それで、無謀にもこのユージェンロに挑むと?」
「お前に挑み、打ち勝ってから言うつもりだった」
俺は見上げる。伯爵令嬢ユージェンロを。誰よりも強く、誰よりも美しく、傲慢不遜、誰にも額づくことの無い戦神の化身を。そしてユージェンロに俺の真意を告げる。
「俺のものになれ、ユージェンロ、と」
初めてユージェンロを見たそのときから、俺は心を奪われた。
戦慄と恐怖、そして憧れと崇拝、威風堂々たる姿で俺の心を捕らえて離さない。産まれて初めて出会った、俺が心底欲しいと想う女。
お前に勝つ為に、勝って手に入れるために、血吐く地獄のような特訓をしたが、これでもまだ足りないというのか。
ユージェンロは不思議そうに尋ねてくる。
「何も言わず、時が来ればこのユージェンロと結婚したというのに?」
「それに何の意味がある? ユージェンロを俺に惚れさせるには、力しかあるまい」
俺にも意地がある。何より王となる男が女の影に隠れ守ってもらうなど、俺の矜持が許せない。
だからこそ、政治の為に作られた関係を一度壊し、勝負を挑みユージェンロに勝ち、この女に俺という男の存在を認めさせる。その心に刻みつける。
その上でユージェンロにプロポーズする、その予定だった。
ユージェンロはポカンと呆れた顔をする。
「それで王子、負けてしまってどうするのですか?」
一度負けたくらいで諦められるものか。
「何度でも挑む。ユージェンロに勝つまで」
勝ってお前を俺のものにする。
俺の決意を聞いたユージェンロは、やがてうつむき身体を震わせる。
「く、くはは、ははははは、はぁっはっはっはっはあ!」
顔を上げて呵呵大笑。あぁ、笑うがいい。俺の間抜けを。挑戦して敗北した、この蝋燭の火に突撃した羽虫ような男を。
「ははははは! なかなか良いですな王子。意地を通す為にバカをする、男子たる者そこに命を賭けられるぐらいで無ければ」
目尻に涙を浮かべるほどに笑ったユージェンロが俺を見る。俺に向かい指を三本立てる。
「では、王子の心意気に敬意を示し、三年の有余をあげましょう」
「三年の有余、だと?」
「ええ、三年の間にこのユージェンロに敗北を味会わせてくれたなら、このユージェンロ、身も心も王子に捧げましょう。ただし、三年過ぎてもそれができなければ、」
ユージェンロは両手を大きく開く。世界を掴むかのように。
「私がこの国の王となる」
「ユージェンロが王になるだと?」
「私を御せる者がいなければ、最も強い者が頂点に立つ。止められる者がいなければ、この国の歴史上、初の女王誕生となります」
「ユージェンロ、この国を奪うつもりか? 王になって何をする気だ?」
「この大陸を支配し統一するため、戦乱を起こす」
ユージェンロが拳を握り、世界に挑むように高く掲げる。
「私の武がどれほどのものか試す。この世界に私に並び立つ者がいなければ、世界は私に平伏するがいい」
大陸全土の統一支配。未だ誰もがなし得ぬ世界征服の野望。それもユージェンロの武であれば、夢物語では無いだろう。
「王子がこのユージェンロを止められ無ければ、大陸は血風と戦乱の修羅の時代を迎えます」
獰猛に笑うユージェンロ。この女ならばやるだろう。俺が婚約破棄などしなくとも、大人しく俺と結婚し物分かりのいい王妃に納まる器では無い。
だが、それでこそ俺の惚れた女。
「待っていろユージェンロ。必ずお前を倒してみせる」
「何処へ行かれます? 王子?」
先ずは折れた腕の治療。それから、
「修行の旅に出る。お前を倒す力を得る為に」
「それを楽しみに、三年は大人しく待ちましょう。ところで王子、ひとつお聞きしたい」
「なんだ?」
「何故、戦闘の中、私の顔を狙わなかったのです?」
「……惚れた女の顔を、殴れるものか」
俺の言葉にユージェンロは大口開けて笑う。
「はははははは! 良い! 実に良い! ラップラー王子、再びこのユージェンロに挑む日を、心よりお待ちする! その時は王子の想いに応えるために、手加減無しで全力で迎えましょう!」
「次に会うときは、必ず……」
必ずお前に勝ち、お前をこの胸に抱く。
誰にも渡さぬ。お前は俺のものだ。
最も危険な野獣、地上で最も美しい猛獣。
ユージェンロ、俺はお前を必ず手に入れる。
――三年後、チャプオン大陸の中の小国が、大陸全土を支配せんと侵略を開始した。
その小国の王と王妃は常に仲睦まじく前線に並び立ち、誰もが恐れる武力で進軍する。
後に新婚旅行戦記と呼ばれる戦乱の幕が開く。